コリア史7部作を完成させて作家の片野次雄氏に聞く
認識は違っても事実は共有可能
歴史認識をめぐり、ぎくしゃくした関係が続いている日本と韓国。その歴史認識のもとになるのは歴史的事実だが、両国民は隣国の歴史をどれくらい知っているだろうか。片野次雄氏のコリア史7部作は、日本の国造りに関係の深い韓国史を、古代から現代まで歴史ノンフィクションとして描いたもの。著作の動機と要点を著者に伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
成熟した日韓関係願う/渡来人が国造りに関わる
歴史的事実を書き並べ肉付けは控えめ
日本では朝鮮三国時代のことがあまりにも知られておらず、韓流歴史ドラマで広開土王が取り上げられても、日本に関するところは描かれていない。日本にとって一番重要な出来事は白村江(はくすきのえ)の戦で、それを描こうと思って書いたのが最初の『戦乱三国のコリア史』だ。
白村江の敗戦は、その後、対馬から畿内にかけて山城や水城(みずき)が築かれるなど、日本にとって深刻な事態となったが、テレビなどでは全くといっていいほど取り上げられない。負けた戦は取り扱わないという、日本のメディアや学校教育の体質的な問題を感じる。
韓国の人たちが好きな「恨五百年(ハンオベンニョン)」という歌がある。五百年は李朝(朝鮮王朝)五百年のことだが、韓国人の対外感情を代表する歌で、韓国の取材では何かにつけてそれにまつわる話を聞かされた。それは、まるで韓国人の精神構造そのもののようだった。隣国の人たちの心を知りたいと思ったのが、日本人があまり触れたがらない『日韓併合』までの7部作を書こうと思ったもう一つの動機だ。
――白村江の敗戦が天智・天武天皇の国造りの大きな要因となる。
唐軍の圧倒的な組織力と火力に、部族連合軍だった日本は打ちのめされる。その後、中大兄皇子が琵琶湖畔の大津に遷都したのは、強力な政治体制をつくるため、抵抗勢力の多い奈良盆地の飛鳥から遠い近江(おうみ)の大津を選んだとする説が有力だが、大津は百済系渡来人が多く居住しており、また高句麗からの交通の要衝だった。
朝鮮半島からの渡来人が日本の国造りに大きくかかわっていたことは明らかで、古代においては半島に近い北九州や出雲が、畿内よりも文化的にすすんでいた。しかし、『古事記』『日本書紀』を編纂(へんさん)する段階になると、それにはなるべく触れないようにしている。
――日本は中国文化の影響を受けたが、朝鮮はそれが通過しただけだという説がある。
文化は抽象的に伝わるものではなく、具体的に人を通じて伝わるものだ。仏教にしても、百済から公伝されたのは538年だが、それ以前に、仏教を信じる人たちが渡来していた。神社にしても、朝鮮半島から一族の守り神と共に渡来した人たちが建てたものが、今も数多く残っている。例えば、秦(はた)氏は松尾大社や伏見稲荷を建立しており、土木や繊維、酒造などの技術で古代日本の国造りに貢献した。そうした渡来人の数からすると、朝鮮半島からのほうが圧倒的だ。
――『蒙古襲来のコリア史』ではモンゴルに支配され日本侵攻の先兵にされた高麗の悲劇が描かれている。
当時の北条政権は国際情勢に全く無知で、フビライが派遣した使者を何度も追い返している。蒙古につぐ元に支配された高麗は、900艘(そう)の軍船建造と、1万人を超える兵士の動員を命じられた。
ところが、そうした高麗王朝に反逆し、元にも抵抗した軍団がいたのである。三つの精鋭部隊という意味から三別抄(サムビョルチョ)と呼ばれる反蒙兵団が、珍島や済州島を拠点に激しく抵抗したため、元・高麗連合軍の日本侵攻は2年も遅延し、失敗に帰した。神風は、その最後の一撃として吹いたというのが事実だ。済州島を観光し、三別抄のことを初めて知る日本人も多い。
――『世宗(セヂョン)大王のコリア史』では、李朝500年、27人の王の中で最も人気の高い第4代世宗大王の治世が描かれている。
王位に就いたのは1418年、日本は足利義持の時代で、倭寇(わこう)対策が課題だった。翌年には対馬を攻めた(応永の外寇)が、最後には室町幕府との外交で、対馬の宗(そう)氏と交易を開くことで解決した。世宗は開明的な王で、火器の開発、金属活字の製作と印刷、北方の脅威の解消、気象天文儀器の開発、そして朝鮮独特の文字「ハングル」の創製に取り組んでいく。ハングル創製の大きな動機は、中国からの文化的独立にあった。
――『李舜臣(イスンシン)のコリア史』は、そんな李朝を侵略した豊臣秀吉と朝鮮の海将の物語だ。
李舜臣は朝鮮水軍の本営の一つ、麗水に赴任していた。開戦後、李舜臣は少ない軍船で日本軍に挑み、巧みに打ち破る。軍船の屋根に鉄板を張った「亀甲船(コブクソン)」も戦果を上げた。再度の侵攻では、小西行長が流した機密情報で、ときの国王・宣祖(ソンヂョ)が李舜臣に出した出撃命令に従わなかったことから、李舜臣は一兵卒に降格されてしまう。代わって元均が水軍を指揮するが大敗。宣祖の命で再び海将になった李舜臣は、明の水軍も率いて日本水軍を破るが、船上で敵弾に倒れてしまう。
――『善隣友好のコリア史』は、江戸時代の朝鮮通信使が描かれている。
江戸幕府を開いた徳川家康は、朝鮮出兵に関与せず、兵も出さなかったと弁明し、朝鮮人捕虜を送還するなどして朝鮮との国交回復に努めた。初めての朝鮮通信使が日本に派遣されたのが1607年で、幕末までに計12回の派遣があった。その中で、吉宗の将軍就任を祝う第9次に焦点を当てたのは、詳細な記録を残した朝鮮の製述官・申維翰(シン・ユハン)と、その相手役に対馬藩の通訳官・雨森芳洲がいたからだ。
約半年、旅を共にした雨森芳洲と申維翰は肝胆相照らすようになり、芳洲は「誠信の交わり」という言葉を残している。通信使が往来した270年の間、両国の平和は保たれた。
――明治になってその平和が破られた経緯を描いたのが『李朝滅亡』だ。
日本が朝鮮王国(後の大韓帝国)に開国を迫り、両国の間で最初に結ばれた「日朝修好条規」の真意は、当時、朝鮮と清との宗属関係を断ち切らせるものであった。伊藤博文が主導した1905年の第二次日韓協約(乙己保護条約)では、日本政府の外務省が大韓国の外交を監理指揮し、その利益を保護する、としている。つまり日本は、武力と脅迫によって大韓国の自主的な外交権を奪ったのである。
――そして『日韓併合』では、日本の植民地下の大韓国での出来事を描いている。
日本の要人に対する爆弾テロのような事件が数多く起こった。明治の元勲、伊藤博文の暗殺者、安重根(アン・ヂュングン)が韓国の国民的英雄という逆転現象も、近代の日韓関係を反映している。独立万歳を唱えながら獄死した少女、柳寛順(ユ・ガンスン)が“朝鮮のジャンヌ・ダルク”と呼ばれていることも、多くの日本人は知らないだろう。南部の光州(クワンヂュ)では中学生たちが大規模な抗日運動を起こしている。
歴史的事実を因果関係を付けながら書き並べ、肉付けは控えめにした。それらの是非を判断するのは読者の知識だからだ。日韓の間で、歴史認識の共有はできなくても、事実の共有はできるし、する必要がある。成熟した日韓関係への一助として、コリア7部作が読まれれば望外の幸せだ。