オーストリア原発中止40年 壮大な浪費、国民投票アレルギー
アルプスの小国・オーストリアにも原子力発電所があった40年前の話だ。厳密に言えば、原発は建設され、いつでも操業できる状態だった。それが国民投票で操業開始反対派が僅差で操業支持派を破ったため、建設され、操業開始寸前の原発は1度も操業されることなく、即博物館入りした。あれから今月5日で40年が過ぎた。ツヴェンテンドルフ(Zwentendorf)原発の話だ。
(ウィーン・小川 敏)
不足電力は隣国の原発から
オーストリア国民はツヴェンテンドルフ原発の話になると何とも表現できない表情をしながら、「あれから40年が過ぎましたか」とため息をつく。一部の環境保護活動家にとっては勝利の証かもしれないが、大多数の国民にとってはそう簡単には割り切れない思いが湧いてくるからだ。
オーストリアの最初の原発は同時に最後の原発となった。ツヴェンテンドルフ原発の話はアルプスの小国オーストリアのエネルギー政策を考えれば、やはり歴史的出来事だったと言わざるを得ないだろう。その意味から、もう一度、ツヴェンテンドルフ原発操業停止の経過を振り返ることも意義があるだろう。
オーストリアのニーダーエスタライヒ州のドナウ川沿いの村、ツヴェンテンドルフで同国初の原子炉(沸騰水型)が建設された。同原子炉の操業開始段階になると、国民の間から反対の声が出てきたため、当時のクライスキー政権は1978年11月5日、国民投票を実施することを決定した。
オーストリアで最初に実施された国民投票の結果は反対派が僅差で勝利したが、反対派ですら当時、勝利するとは考えていなかったので「驚いた」という。反対160万677票、賛成157万6709票でその差は約3万票だった。投票率は約64%。
同じ1978年、自民党総裁選で予想外に敗北した福田赳夫首相がその直後、「天の声にも変な声も、たまにはある」と嘆いた話は有名だ。クライスキー首相がどう感じたかは知らないが、ビッグ・サプライズだったことは間違いない。
ツヴェンテンドルフ原発は操業可能な状況だったが、一度として操業されなかった世界で唯一の原発という記録を残した。当時70億シリング(現行価格で約10億ユーロ=1290億円相当)を投入して完成した原発だ。
原子炉を稼働する原発は「はい、停止ですね」と言って容易に破壊できない。安全保存のために操業停止後もほぼ同額の資金を投入しなければならない。天文学的な浪費というべきかもしれない。原発操業のために雇用された専門家約200人は操業中止後も雇用契約を維持しなければならないから、人件費もばかにならない。“眠れる森の美女”となった原発を見詰めながら、原発推進派は「いつか操業の日を迎えるだろう」と一途に希望を持ち続けていたわけだ。
オーストリアでは“ツヴェンテンドルフの後遺症”と呼ばれる現象がある。原発問題をもはや冷静に議論することなく、反原発路線を「国是」としてこれまで突っ走ってきた。同時に、政治家は国民投票に対し強烈な拒絶反応を有するようになった。
ツヴェンテンドルフ原発の操業中止後、同国議会は「反原発法」を採択し、将来の原発利用を禁止した。1979年の第2次オイルショックもあって国民の間で原発支持を求める声が一時高まったことがあるが、チェルノブイリ原発事故(1986年)で原発操業の道は完全に閉ざされていった。同国議会は1999年、連邦法「反原発法」を全会一致で憲法に明記した。
参考までに、同国の主要エネルギー源は水力発電だが、年々、必要なエネルギーを輸入に頼ってきている。そのうち、かなりの量は隣国の原発が生産した原子力エネルギーだ。