北方領土の日、共同経済活動後の道筋は?


きょう38回目の「北方領土の日」

縮まらぬ日露の温度差

 日本とロシアは1855年2月7日に結んだ日露通好条約で、両国の国境を択捉(えとろふ)島と得撫(ウルップ)島の間に定めた。しかし、わが国の領土である択捉、国後(くなしり)、色丹(しこたん)、歯舞(はぼまい)の北方四島は、戦後70年以上が経過した現在もなお、ロシアの占拠下にある。きょう、38回目の「北方領土の日」を迎え、「北方領土返還要求全国大会」が官民一体となって開催される。

 北方領土問題の解決を目指し、安倍政権は北方領土での日露共同経済活動の推進に力を入れている。安倍首相が2016年5月、ロシア南部のソチで開かれた首脳会談でプーチン大統領に、「今までの停滞を打破する突破口」として「新しいアプローチ」を提案したのが発端だ。

 両首脳は同年12月、共同経済活動の交渉開始で合意。日本政府は17年6月、北方領土に初の官民調査団を派遣し、海産物の養殖、風力発電、温室野菜の栽培、観光などの分野が有力と判断した。

 この新しいアプローチは確かに、停滞する日露交渉を再び前進させる突破口をつくったが、懸念の声も少なくはない。

 懸念の一つは、法的基盤をどう組み立てるかだ。日本は共同開発地域内で「特別な法制度」を創設することを提案しているが、ロシアは「ロシアの法律が適用される」との立場を崩していない。ロシアの法制下で共同経済活動を行えば、ロシアの主権を公式に認めたことになる。

 そして最大の懸念は、共同経済活動が、どのように平和条約締結や領土返還に結び付くのか、道筋が見えないことだ。

 ロシアはこれまでも、「経済協力の進展が領土問題解決の環境をつくる」(ラブロフ外相)として、日本からさまざまな経済協力を引き出してきた。共同経済活動がなし崩し的に進められ、領土問題が置き去りにされてきたこれまでの経緯を、繰り返さないとは限らない。

 ロシアは昨年、極東振興の一環として国民に土地を無償分与する新法を北方領土にも適用し、希望者からの申請を受理しはじめた。択捉島、国後島に加え、色丹島も対象となっており、実効支配を強化する構えだ。

 北方領土の軍事基地化も進んでいる。ロシア政府は2月1日、北方領土の択捉島にある旅客用空港を、空軍も基地として利用できる軍民共用空港とすることを決定した。択捉島と国後島には2016年、最新鋭の地対艦ミサイルが配備された。

 北方領土の共同経済活動についても、日露の温度差が目に付く。ロシアのトルトネフ副首相は1月31日、サハリンのメディアとの会見で、「共同開発など存在しない。言葉だけで、実際の動きなどない」と語っている。

 しかし、それでも、ロシアが四島を占拠している以上、それを取り戻すには、交渉を継続する以外に方法はない。共同経済活動をテコに、したたかなロシアを交渉のテーブルに着かせ、結果を引き出すという、ロシアを上回るしたたかさが要求されている。

北方開拓史が示す正当な領土

 日本の北方開拓史は戦国時代に遡(さかのぼ)る。蝦夷地を拠点とした松前氏は1475年、樺太アイヌの首長から貢物を献上され、樺太にも影響力を及ぼしていた。その後松前氏は、豊臣秀吉、そして徳川家康の臣下となり、蝦夷地の支配を認められた。蝦夷地とはアイヌが住む地との意味で、北海道だけでなく樺太、千島を含む。
 松前藩は1635年に樺太のほか国後・択捉などを含む蝦夷地の地図を作成した。1679年には樺太の大泊と真岡に陣屋を設置し、樺太北部に向け開拓を進めた。また、1754年には択捉島、国後島を家臣の知行地と定めている。

 ロシアの極東進出は長い間清朝に阻まれていた。文献上での択捉島におけるロシア人最初の足跡は1766年だ。択捉島進出を狙うロシアに対抗するため近藤重蔵は1798年、択捉島に「大日本恵土呂府」の木柱を建立した。間宮林蔵は1808年、幕府の命で樺太探検を行い、樺太が島であり、ロシアの影響力が及んでいないことを確認している。

 しかし、ロシアは清朝弱体化に乗じ極東進出を推し進め、1853年には樺太の占領方針を決定した。武力を背景に日本に圧力をかけ、樺太南端を日露国境とするよう強硬に主張した。このため1855年の日露通好条約では樺太の国境画定に至らず、両国民の雑居地となった。ロシアはまた、択捉島の東半分を自国領と主張したが、日本側の粘り強い交渉により、択捉島と得撫島の間に国境が画定された。

 しかし、その後もロシアは「雑居地」であることを理由に、樺太南部への進出を推し進めた。軍事的な圧力を前に日本政府はやむなく樺太の放棄を決め、1875年に樺太千島交換条約を締結した。千島には豊かな漁場があるとはいえ、広大な樺太との交換は日本にとって不利な内容であった。

 このような歴史の中で、北方四島は日本の領土と定まった。太平洋戦争以前にロシア領となったことはなく、日本固有の領土であることは明らかだ。