ポスト安倍 高き理想持つ現実主義者たれ
大和大学准教授 岩田温氏
自民党総裁選挙は、石破茂元幹事長、菅義偉官房長官、岸田文雄政調会長の3人で争われ、実質的に後継首相を決める投票が14日行われる。新型コロナ対策、米中対立激化など難問山積の中、「宰相の条件」を3識者が語る。
「宰相の条件」を論ずるというのであれば、政治家とは何かを論ずるところから始めなければならない。何故(なぜ)なら、卓越した政治家こそ宰相に相応(ふさわ)しいのであって、政治家として不適格でありながら宰相の条件を備えた人物など存在するはずがないからだ。
優れた政治家は二つの相反する資質を備えていなければならない。すなわち、理想主義者であり、かつ、現実主義者であるということだ。
考えてみれば、天真爛漫(らんまん)な理想主義者として生き抜くことも、権謀術数を駆使する現実主義者に徹することも、どちらも人間として相当困難な生き方だ。人間は知らず知らずのうちに中途半端な妥協をしてしまう生き物だからだ。理想は理想としつつも現実に妥協し、冷徹にふるまうべき局面でも情に流されるのが人間という生き物だ。理想に殉じた江戸時代の与力、大塩平八郎のような生き方も、血も涙もない権謀術数に徹したフランス革命期のジョゼフ・フーシェのような生き方も一般の人間には難しい。
だが、政治家という観点から眺めてみれば、純粋な理想主義者は政治家として活躍することが難しいだろう。政治には妥協が必要だが、純然たる理想主義者の眼(め)には、妥協は裏切りに映ずるからだ。妥協なき政治を貫き通そうとすれば、過激な原理主義者として生きるしか選択はなくなってしまう。
暴戻なる現実主義者は政治家として生き抜いていくことは可能なはずだ。彼は権力と適切な距離感を保ちながら、他者を踏み台としながら自らの生命を永らえさせるだろう。だが、一体、彼は何のために政治家として生きているのかを自己自身で問うてみたとき、こみ上げてくるのは寂寥(せきりょう)感だけであろう。生き延びはしたが、理念など何もない人生に何か誇るものなど存在するだろうか。
傑出した政治家、すなわち宰相はこの二つの相反する条件を併せ持たねばならぬ宿命を背負わされている。どちらかに偏した段階で、彼は政治家としての資質を欠く。誰よりも高い理想を持ちながら、誰よりも現実主義的でなくてはならないのだ。
そのような宰相が存在したのかと振り返ってみたとき、思い起こされるのが台湾の李登輝元総統である。台湾を民主化させるという高邁(こうまい)な理想主義者であると同時に徹底した現実主義者でもあった。李登輝の現実主義は次の言葉に端的にあらわされている。
「政治家が心しなくてはならないのは、問題に直面したとき決して直線で考えないことだ。最短距離を見つけようとしてはならない。目的地への直線を引くことをやめて、必ず迂回すること、むしろ回り道を見つけだそうと努めるべきなのである」(『台湾の主張』)
仮に李登輝が民主主義を熱烈に求めるだけの政治家であったならば、台湾の民主化はかなわなかったに違いない。彼は誰よりも台湾の民主化を求めながらも、事を運ぶのに極めて慎重であり、じっと時を待ち続けた。龍は自らに相応しい巨大な雲が現れるまで姿を現さない。雷光が閃(ひらめ)き、巨大な黒雲が立ち込めたとき、卒然と龍は天に昇る。李登輝は短兵急に結論を出さず、民主化が確実となる条件を整備したのちに、自らの理念を現実化させたのだ。
改めて考えてみたい。宰相の条件とは何か。
胸中に高い理念を抱きながらも、理念に溺れない。
焦ることなく、極めて冷静に状況に対応し、状況そのものを漸進的に変化させ、遂(つい)には自らの理想の実現に相応しい状況を作り上げ、理念を実現していく。
二つを併せて宰相の条件としたい。
(敬称略)






