蔓延る無責任政治、憲法から整備し出直しを
《 記 者 の 視 点 》
波乱が続いた東京五輪が開幕し、17日間の公式日程が始まった。新型コロナ禍のため開催が1年延期され、それでも感染拡大が止まらず、東京に4回目の緊急事態宣言が発令され、大部分の競技が無観客で行われる異例の大会となった。
こんな中でも、気勢を上げているのが共産党だ。都議選で真っ先に五輪中止を公約に掲げ、議席を1増させるとともに立憲民主党との選挙協力でも立民側に「リアルパワー」との認識を植え付けることに成功した。現在は、五輪開催への不安や不満を吸い上げて、9月以降の衆院選に向けた党勢拡大(しんぶん赤旗の読者や党員拡大)につなげようとハッパを掛けている。「五輪より命を」「五輪を中止し、コロナ対策に集中を」がそのスローガンだ。
五輪反対派を活気づかせたのは、政府のコロナ対策の不人気だ。東京に緊急事態宣言を発令しても感染は拡大を続け、対策の「切り札」ワクチン接種は目標の1日100万回を達成しても、ワクチン供給をめぐる政府と自治体との軋轢(あつれき)が表面化し、不評を買った。
独自開発のワクチンを持たず、お願いベースの対策しかできない日本の限界が明らかになったのだ。
強制力も罰則も補償も十分でない中、国民の協力だけに頼るには1年数カ月の忍耐期間は長過ぎた。感染力の強い変異株が広がる中で、国民の自粛疲れは顕著だ。人流の減少も限定的で、マスク着用や3密回避、飲食店への時短・休業要請への協力も綻びが目立つ。
政府は先に、飲食店の酒類提供禁止を確実にするため、酒類販売業者や金融機関、マスコミなどを通した“圧力”を試みたが、業界などの反発を受けて全面撤回した。法律に強制力がないので便法で乗り切ろうとして墓穴を掘った形だ。
国民が自発的に呼応しなければ打つ手がないというのは、政府に政策遂行の十分な権限がないということだ。新型コロナウイルス対策特別措置法のこのような限界は、憲法に緊急事態における内閣の権限強化や私権制限、補償などを規定する条項(緊急事態条項)がないことに起因する。さまざまな法律の中で憲法の定める自由・権利と「公共の福祉」との均衡を取りながら緊急事態対応の条文を調整するしかないのが現状だ。
政府が憲法と法律に裏付けられた権限を持つことで、その責任も明確になる。それをうまく行使できなければ、国民が選挙を通して与党の責任を問うのが、本来の民主主義社会の在り方であるはずだ。しかし、立民や共産などは、政府に十分な権限を与える憲法改正の議論はせずに、政府の責任だけを追及する。当然、その追及は中途半端な国民向けのパフォーマンスで終わる。政府・与党も、われわれはこんな権限しかないのによくやっている、野党が政権を取ればもっとやれないはずだと見透かして、本気で反省することがない。
こんな中で蔓延(はびこ)るのが政治の無責任体制だ。その象徴が社会情勢の激変にもかかわらず、70年以上も放置されてきた憲法だ。コロナ禍で浮き彫りになったこんな政治の病根を根本的に治癒していくためには、憲法の改正から手を付けなければならない。
政治部長 武田 滋樹