優しい母、失われた日常「あの時戻っていれば」
後悔とあふれる涙、亡くなった鈴木チヨセさんの長男が語る
静岡県熱海市の土石流発生から10日で1週間。犠牲になった鈴木チヨセさん(82)の長男、仁史さん(56)は「あの時、家に戻っていれば助けられたかもしれない」との思いにとらわれている。
3日午前、ごう音が響き、妙な振動を感じた。「あんた、ちょっと変だよ」。足の悪いチヨセさんの言葉で自宅から出ると、門の前に20センチほど土砂が堆積していた。共に流れてきた木材を足場にし、1~2分かけて約20メートル離れた場所に移動。その後、再び大きな音が響き、警察官から避難するよう指示された。
「家に母がいるんです」。何度も訴えたが制止された。立ち尽くす以外、何もできないまま約30分が経過。自身にも危険が迫り、避難を決めた。「一緒に逃げるべきだったと、今は思う」
次男の英治さん(50)は出張先の神奈川県で土石流を知った。自宅の電話はつながらない。深刻なことになった-。
一夜明けた4日、母が病院に搬送されたとの連絡が入る。容体は良くない。病院に駆け付けたが、チヨセさんは到着してすぐに息を引き取った。
ユーモアがあり、面白いことを言って笑わせてくれた母。玄関が鉢植えで埋まるほどの花好きで、足が悪くなってからも手入れは欠かさなかった。帽子好きで、英治さんは母の日や誕生日に10個以上をプレゼントしてきたという。
チヨセさんは先月23日、夏に向け、ばっさりと髪を切ったばかりだった。「髪の分け目が本当にそっくり」。英治さんがそう言うと、「鏡を見ているみたいだ」と笑ってくれた。「せっかく切ったばかりなのにね」。動かなくなった母の髪をなでたという。
当たり前の日々はもう戻らない。「遅くなっても、いつも『お帰り』と迎えてくれたんです」。そう語る英治さんの目に涙があふれた。