「忘れない」「生きる限り」、76年目の 「慰霊の日」


糸満市の平和祈念公園で、「平和の礎」に遺族らが祈り

「忘れない」「生きる限り」、76年目の「慰霊の日」

親族の名が刻まれた「平和の礎」に供え物をし、手を合わせる遺族=23日午前、沖縄県糸満市の平和祈念公園(森啓造撮影)

 76年目の「慰霊の日」を迎えた沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園。24万人超の犠牲者の名が刻まれた「平和の礎」には雨が降る中、早朝から数多くの遺族が足を運び、祈りをささげた。

 母と兄弟を失った宜野湾市の渡名喜幸子さん(87)は戦前、意味を理解しないまま熊本県に学童疎開した。母と交わした最後の言葉は記憶にない。戦後戻った那覇港で、同級生が家族らに迎えられる中、母の姿はなかった。

 出港前、母は20キロ離れた那覇まで歩いて来たが、すれ違いで自分に会えなかったと知った。「悔しくて悔しくて。一生の心残り。孫たちと元気にしていますと、生きる限り報告に来る」と話した。

 豊見城市の金城利治さん(86)は伯父夫婦を亡くした。伯母は身ごもっていたが、二人とも手りゅう弾で死んだと聞く。記憶を次世代へ引き継ごうと、4年前から孫を連れてくるように。孫で大学生の仲島辰星さん(21)は「親族の刻銘にばかり注目するが、ふと見渡すと死者数の重みに圧倒される。戦争では簡単に人が死ぬことを、時代の流れで忘れてはいけない」と語った。

 宜野湾市の宮里澄子さん(89)は鹿児島に向かう途中に撃沈された疎開船「湖南丸」に乗っていた、義姉の名に手を合わせた。自身は疎開先の渡嘉敷島の山中にあった防空壕(ごう)で過ごしたが、爆撃に遭うなどして亡くなった人も多いという。宮里さんは「子供や孫には、平和を守ってほしい」と話した。