天皇と宗教、2000年の歴史
皇室受容で根を下ろす仏教
市谷亀岡八幡宮宮司 梶 謙治氏に聞く
日本人の信仰は、1万年以上続いた縄文時代のアニミズム、弥生時代の稲作に伴う儀礼の神道的風土の上に、6世紀に仏教を受容し、さらに渡来の仙道、陰陽道、儒教を取り込んで、平安時代にほぼ完成する神仏プラスアルファの習合である。天皇と宗教、とりわけ神道と仏教との関わりについて、梶謙治・市谷亀岡八幡宮宮司に話を伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
神仏習合の信仰から統治へ
大嘗宮は日本文化の精髄
上皇陛下御夫妻は6月12日、京都・泉涌寺にある明治天皇の父、孝明天皇の陵墓を訪れ、御譲位を報告されました。真言宗泉涌寺派総本山の泉涌寺には鎌倉時代から江戸時代までの歴代天皇・皇族の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれています。ところで、仏教の「因果応報」の考えは古代の日本人にあったのですか。

かじ・けんじ 昭和40年東京都生まれ。法政大学文学部日本文学科卒業の後、國學院大學文学部神道専攻科を修了し神職になった。27歳で父の跡を継ぎ、室町時代、太田道灌が江戸城の西の護りとして勧請した市谷亀岡八幡宮の宮司となる。古典に詳しく、日々の務めのほかブログ、講話、人生相談などで神道を広めている。著書に『神道に学ぶ幸運を呼び込むガイド・ブック』(三笠書房)がある。
「善い行いが幸福をもたらし、悪い行いが不幸をもたらす」という考えは経験知としてあったと思います。神道の大祓詞(おおはらえことば)では、稲作などについて公益に反する行為が罪とされています。共同体の中で人を呪う、そしるなどの行為も禁じています。
仏教が日本人に個人の罪という概念をもたらしたという考えがあります。
共同体を維持するために禁止事項として規定されていたのが天つ罪、国つ罪で、個人的な罪は少なく、近親相姦や殺人、傷害などです。そのほか細かい食事や行為の制限は余りありません。個人の生活における善因善果・悪因悪果は仏教によって広まったのではないかと思います。
最古の仏教説話集『日本霊異記』では戒律に反することをした人が死後、牛になったりします。罪に対する罰が来世まで持ち越されるのはかなり厳しく、それが集団から個人の単位まで下りてきたのは仏教の普及によると思われます。善因善果の話もあり、平安時代末期の『今昔物語』になるとそれが増えています。上層から下層へと仏教が伝播(でんぱ)していく中で、そうした説話が好まれるようになったのでしょう。
仏教の輪廻(りんね)転生は日本人の死生観に合ったのですか。
日本には仏教のような輪廻転生の伝統はありません。『古事記』では人間を青人草と言い、男女の交わりから国が生まれているように、この世は自然に生まれてきたという考えです。生と死の始まりについて、イザナギが亡くなったイザナミを連れ戻しに黄泉(よみ)の国へと行く話があります。最後に、黄泉の国から逃げ出そうとするイザナギがどうにか追っ手を振り切り、黄泉比良坂(よもつひらさか)の入り口を岩でふさぐと、イザナミは「毎日、1000人を殺す」という呪いの言葉をかけます。それに対してイザナギは「では、毎日1500人の産屋を建てよう」と答えます。これで世界に「生と死」が生まれたというのです。
もっとも縄文時代の遺跡や遺物からも、命の循環、生まれ変わりの思想はありましたが、死後動物などに生まれ変わるという考えはありませんでした。私は、汎(はん)アジア的、環太平洋的な海洋文化の死生観が影響しているのではないかとも思います。各地の民俗伝承に登場する虚舟(うつろぶね)での旅や、イザナギとイザナミとの間に生まれた最初の神ヒルコは葦(アシ)の舟に入れて流され、後に蛭子神になっています。
538年に百済の聖明王から仏像や経典、上表文を献上された欽明天皇が仏教受容の可否を有力豪族に諮ると、物部氏と中臣氏が反対し、賛成の蘇我氏との間で崇仏論争が起こります。そこで天皇は仏教を蘇我氏に預けています。
『日本書紀』には「神道を尊び、仏法を敬え」という欽明天皇の詔が記されています。天照大神を皇祖とし、天孫降臨神話を持つ天皇はいわゆる祭祀(さいし)王であり、その下で物部氏は既得権力を持っていました。それに対して蘇我氏は、新しい技術を持つ渡来人や彼らの仏教を受け入れ勢力を広げようとしたのです。
即位の礼が神道式になったのは明治天皇からで、鎌倉時代から江戸時代までは仏式の即位灌頂(かんじょう)が行われていました。
日本に伝来した仏教は皇室が受容することで初めて根を下ろすことができたわけです。それが民衆に広がっていく過程で、仏教が、日本人が生きる上での普遍的な価値を持つようになったのが、即位の礼も仏式で行われるようになった大きな理由だと思います。とりわけ空海と最澄という二大スーパースターが現れ、真言宗は皇居(明治以降は東寺)で国家安泰・玉体安穏・五穀豊穣(ほうじょう)・万民豊楽を祈る「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」を、天台宗は延暦寺で、天皇陛下の「御衣」を御形代に、玉体安穏、天下泰平、万民豊楽を祈願する「御修法大法」が行われるようになりました。そうした仏教の力を権力が人心掌握に使わないはずはありません。
仏教では日本人の根底にある神道との融合に腐心し、結果的に本地垂迹(ほんじすいじゃく)説で神仏習合が進むという、世界でもまれな信仰形態が生まれ、1000年以上続くことになります。
神社と違い寺は本山・末寺の関係がはっきりしているので、末端まで管理しやすく、室町時代以降になると、墓が成立し、寺が死者供養を積極的にするようになります。それによって、生前、生間、死後の三世がつながり、唱道宗教の仏教が宗教を主導するようになったのです。
古儀の復旧に努めた光格天皇の孫の孝明天皇の即位礼は中国式でしたが、明治天皇の際は、中国式の香合をやめ直径1メートル以上の地球儀を据えました。徳川斉昭が、開国進取の上奏文と共に奉献したものです。
古儀として伝わっているものも、時代や世相に合わせて少しずつ変えています。しかし、大嘗祭と祭礼が行われる大嘗宮は日本の文化の精髄で、これを護持するために、神社を窓口とした奉納のみならず、広く例えばクラウドファンディング等の利用を視野に入れてでも予算のなんのとは言わずに、板葺等の簡略化されたものではなく旧来の茅葺(ぶき)社殿、そして古儀に則(のっと)り実現して頂きたいと切に願います。