漂泊の俳人・尾崎放哉と西田天香

「路頭」生活にひかれた放哉

燈影学園長 相 大二郎氏に聞く

 「咳をしても一人」で知られる漂泊の自由律俳人・尾崎放哉(本名・秀雄)の命日に当たる4月7日、終焉(しゅうえん)の地、香川県土庄町にある放哉ゆかりの小豆島霊場58番札所・西光寺で「放哉忌」が営まれた。同寺の境内には土庄町立の小豆島尾崎放哉記念館がある。一時、放哉が身を寄せていた宗教団体・一燈園の相大二郎燈影学園長に、同教祖・西田天香と放哉について伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

托鉢より講演忙しい天香に不満
最期を看取った「お接待」

一燈園にも関係した尾崎放哉の俳句は人気があります。

相大二郎氏

 あい・だいじろう 一燈園で生まれ育ち、西田天香の精神を40年以上、体験してきた。一燈園・燈影学園(京都市山科区、小・中・高校)の学園長として長く教育に携わり、平成23年「教育者 文部科学大臣表彰」受賞。著書に『いのちって何?』(PHP研究所)がある。

 私も1月に小豆島を訪ねた折、放哉の墓参りをしました。天香さんに惹(ひ)かれた放哉が一燈園で奉仕生活をしたのはわずか4カ月間ですが、一燈園にとっても忘れられない人物の一人です。

 放哉は明治18年、鳥取市に鳥取地方裁判所書記官の家に生まれ、東京帝国大学法科大学に入学し、自由律俳句の荻原井泉水に師事して、在学中に作句が「ホトトギス」に入選するなど活躍しています。明治42年に卒業して東洋生命保険に就職し、仕事の傍ら句作に情熱を傾けますが、酒乱の性癖があったことから不遇が続き、大正10年に辞職します。その翌年、紹介された朝鮮火災海上保険の支配人として再起を図りますが、酒の上の間違いで免職となります。

 妻と別れ、持病の肋膜(ろくまく)炎が悪化したこともあって人生に絶望した時、西田天香の『懺悔の生活』を読んで感銘し、一燈園で立ち直りを果たそうと、大正12年に天香さんに手紙を書き、京都にやって来たのです。

当時はそうそうたる人物が一燈園に入っています。

 天香さんと交流があったのは、田中正造や徳富蘆花、倉田百三、阿部次郎、安倍能成、和辻哲郎、河上肇、河井寛次郎、石川三四郎、近角常観、谷口雅春などです。倉田百三は天香さんをモデルに書いた戯曲『出家とその弟子』がベストセラーにり、一燈園はますます有名になりました。

放哉はどんな修行をしたのですか。

 当時、一燈園同人は路頭に出て乞われるままに仕事を手伝う「托鉢(たくはつ)」が日常の修行でした。放哉が後に回顧しているのは、留守番や掃除、夜番、店番、病人の看護、ビラ撒きなどいろいろです。

 当時、一燈園には約160人の同人がいて、そのうち50人が、放哉の入園後2カ月に起きた関東大震災の復興手伝いのため東京へ、また50人が地方に派遣され、残りの60人が鹿ヶ谷道場より京都市内外へ托鉢に出掛けていました。天香さんの講演の手伝いとして舞鶴にも出掛けています。講演に同行した同人たちは、会場周りや手洗いを掃除したり、来場者の靴を磨いたりしていました。

当時の天香さんは労働争議の仲介もしていますね。

 産業資本主義の発展期で、労働争議が頻発していました。例えば、大正期の舞鶴の海軍工廠では、大正7年の米騒動に工廠の職工が中心になっていたので、労働運動の発展を恐れた軍当局は、大正10年に全国的な修養組織を誘致しています。その一環として、天香さんも講演に招かれたのだと思います。一燈園も「争いのない生活」を求めて、「無所有・奉仕」を行う修養組織ですから。

 もっとも放哉は親しい同人への手紙で、天香さんから「私が各地方で講演するのをどう思いますか」と聞かれたので、すぐに「私としては非常に面白くないと思います。じっと座っていられるあなたを欲します」と答えたと書いていますから、托鉢よりも講演に忙しい天香さんに不満を感じていたようです。

この間、放哉はどんな俳句を作っていますか。

 「落葉掃き居る人の後ろの往来を知らず」「ねそべつて書いて居る手紙を鶏に覗かれる」「皆働きに出てしまひ障子あけた儘の家」などです。

天香さんの無一物の生き方に惹かれ一燈園に入った放哉が、わずか4カ月で去ったのはなぜですか。

 仲の良かった同人への手紙などから推測すると、「路頭」生活の実践者としての天香さんに惹かれて入園したのに、当の天香さんは托鉢よりも講演に忙しい名士になってしまっていたと感じたのが大きかったようです。

 一燈園は無所有を旨としますが、有名になると天香さんに家や土地など寄進する人が出てきます。それらをどう扱うか思案した天香さんは、事業体としての宣光社をつくり、そこで預かるようにしたのです。以来、生活共同体としての一燈園と宣光社が一燈園生活の車の両輪となります。放哉が一燈園に入った頃はそうした転換期に当たり、そうした全容を放哉は理解できなかったのではないでしょうか。

経歴から見ても放哉は当時のエリートで、俳句からは想像できないプライドや性格的な歪みもあったようです。

 酒乱の癖もあって生活は破天荒で、天香さんとは真逆の生き方をした人です。そんな人でも引き付けるような幅の広さが天香さんにはありました。もっとも、争いを避けるために無所有を貫くといっても、実際の暮らしでは物を所有するようになりますので、所有しても預かり物としてそれに支配されない生き方が求められます。そうした天香さんの内面にまでは、放哉は思いが及ばなかったのではないかと思います。

一燈園を出た放哉は寺男などを遍歴し、海が見える所で死にたいと言って、井泉水の紹介で小豆島にやって来ます。

 西光寺の庵で酒と作句に明け暮れ、8カ月後の大正15年に亡くなります。寝たきりになった放哉を最後まで世話したのは近所の老女で、宗教学者の山折哲雄さんは、小豆島八十八カ所巡りのお接待文化に助けられたのだろう、と言っています。

 その中で生まれたのが「足のうら洗へば白くなる」「障子あけて置く海も暮れきる」「入れものが無い両手で受ける」などの代表作です。入れものが無い~の句は一燈園の托鉢を思わせますから、その時の放哉に、一燈園での記憶がよみがえったのかもしれません。