朝鮮通信使と雨森芳洲
江戸時代の「誠信の交わり」
大妻女子大学比較文学部教授 上垣外憲一氏に聞く
 昨年10月、「朝鮮通信使」の記録がユネスコの世界記憶遺産に登録された。朝鮮通信使は室町時代から江戸時代にかけて、朝鮮王朝(李氏朝鮮)から日本に派遣された外交使節団で、両国の友好親善を象徴するもの。江戸まで通信使に随行したのが対馬藩の儒者・雨森芳洲で、朝鮮の書状官(書記官)・申維翰との友情は日韓交流史に特筆される。『雨森芳洲』(中公新書)でサントリー学芸賞を受賞した上垣外憲一教授に、朝鮮通信使の現代的意義を聞いた。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
互いに欺かず争わず
国の貴賤は「人格と教養」
江戸時代の朝鮮通信使とは。

かみがいと・けんいち 1948年長野県生まれ。東京大学教養学科ドイツ分科卒業、同大学院比較文化博士課程修了。ソウル大学に留学し、国際日本文化研究センター教授、帝塚山学院大学文学部教授、副学長などを経て現在、大妻女子大学比較文学部教授。近著に『鎖国前夜ラプソディ 惺窩と家康の「日本の大航海時代」』(講談社選書メチエ)がある。
慶長12年(1607)の第1回から第3回までの「回答兼刷還使」を含め、朝鮮王朝から12回派遣された外交使節で、主には将軍の就任祝賀です。
当時、日本に来る外国の使節は朝鮮だけで、琉球も外国とされていましたが、実質的に薩摩藩が支配していたので属国扱いでした。それに対して朝鮮は日本と対等の国で、正使は朝鮮国王の代理なので、一般の日本人にとって尊敬の対象になります。
通信の「信」は中国語で手紙のこと。朝鮮国王が徳川将軍に宛てた手紙「国書」は一番大事で、正使より立派な輿(こし)に載せて運ばれました。
東アジアの儒教文化圏では、対等な国際関係を「交隣」と呼んでいました。その関係は通信使の派遣が始まった室町時代から同じで、朝鮮国王と足利将軍の対等な関係を、徳川幕府も踏襲したのです。
東アジアでは伝統的に、最高の権力者は中国の皇帝だけでした。国王は皇帝より下位にあり、朝鮮国王は中国皇帝の臣下です。朝鮮国王が亡くなり、次の国王が王位を継承するときには、中国皇帝の認可が必要でした。琉球王国でも同じで、王位継承に際して、中国から次期国王を任命する使者の冊封使(さくほうし)が、皇帝の詔書を持参して来ます。冊封とは皇帝と主従関係を結ぶ外交のことです。
古代から近世まで、東アジアには中国を頂点とする華夷秩序の外交関係があり、周辺諸国は代々中国の冊封を受けていました。日本も邪馬台国、倭の五王などが冊封を受け、中国に臣下の礼を取っていましたが、聖徳太子の時代にこれをやめます。
室町時代の通信使は倭寇対策を日本に要請するのが目的で、日本の国情視察も兼ねていました。当時、日本と朝鮮は対等で平和的だったのですが、戦国時代になると外交関係が途絶えて、さらに豊臣秀吉の朝鮮出兵で国交が断絶します。その復興を目指したのが徳川家康です。
通信使の旅程と編成は。
朝鮮の首都漢城(今のソウル)を出発した通信使一行は、釜山まで陸路を行き、そこからは海路で対馬、壱岐に寄港し、馬関海峡を経て瀬戸内海に入り、鞆の浦、牛窓、兵庫などに寄港しながら大坂まで進みます。そこで川御座船に乗り換えて淀川を遡航(そこう)し、淀で上陸し、輿と馬、徒歩で陸路を江戸に向かいます。
京都に泊まりますが天皇との会見はありません。当時の朝鮮は清国に朝貢していますから、皇帝のような天皇は不都合なので知らないふりをしていました。対馬を介した交易があるだけなので問題は表面化しませんでしたが、天皇が主権者となった明治になると、外交上の大問題になります。
通信使の編成は正使・副使・書状官の三使から成り、とりわけ書状官は漢文の名人でした。当時、日本人も漢文を学んでいたので、多くの人が通信使の宿舎に押し掛け、漢文で筆談をしていました。そうした筆談録が出版され、写本も多く残っているので、それらも重要な日朝友好の記憶遺産です。
当時、朝鮮と日本は互いに外交官を駐在させていなかったので、朝鮮は日本の事情を探りようがありません。通信使の目的の第一は、日本が再び攻めて来ないことの確認でした。もっとも、日本がどうなるかは将軍次第なので、将軍に直接会い、国王の書簡を渡し、返書をもらうのです。日本も、通信使を迎えることが、友好の意思表示になっていました。今の国賓を迎えての宮中晩餐(ばんさん)会と同じです。
朝鮮通信使の一行には楽隊や料理人、画家なども含まれていました。童子を交えた楽人たちの踊りが、通信使が通過した各地に残されていて、これらも無形の記憶遺産です。岡山県の牛窓は潮待ちには、鮮やかな色彩の衣装を着た2人の男児が、小太鼓や横笛と歌に合わせて踊る「唐子踊り」が残されています。
文書の記録として一番有名なのは、享保年間の通信使の書状官として来日した申維翰が残した『海游録』です。内容は、日本の自然から物産、文物、制度、人情、世相、風俗の観察から、雨森芳洲や林信篤などとの筆談で、当時の日本を知る上でも貴重です。
雨森芳洲はどんな人。
朱子学者・木下順庵の下で新井白石、室鳩巣らと才を競い、対馬藩に仕官します。その後、長崎で中国語を、釜山の倭館で朝鮮語を学んでいます。芳洲が外交の要諦を記した『交隣提醒』には「互いに欺かず争わず真実を以て交わり候を誠信とは申し候」とあり、「誠信の交わり」が外交の基本だとしました。
随筆『たはれくさ』には、「国のたふときと、いやしきとは、君子小人の多きとすくなきと、風俗のよしあしとにこそよるべき。中国にむまれたりとて、ほこるべきにもあらず。また夷狄にむまれたりとて、はづべきにしもあらず」とあります。
今、韓国に対する差別発言がネット上に氾濫していますが、似たようなことは江戸時代にもあり、本居宣長もヘイトスピーチのようなことを言っています。そんな時代に芳洲は、国の貴賤は人格と教養のある君子の多さと風俗によって決まるとしたのです。当時の中国は清朝で、最も栄えた乾隆帝の時代ですが、芳洲は礼賛していません。近代的な国際倫理を近世に説いた思想家として、もっと注目すべき人物です。










