遺跡から見たアイヌ民族

調査進む小氷期の古環境

海道立北海道博物館学芸員 添田雄二氏に聞く

 15世紀から19世紀初頭にかけて世界は小氷期と呼ばれる地球規模の寒冷期を迎えていた。とりわけ17世紀中頃から起きたマウンダー極小期は特に寒冷で作物が育たず数百万人が飢餓(きが)などで犠牲になったという。明治以前まで蝦夷地と呼ばれた北の大地・北海道もご多分に漏(も)れずこの時期は寒かった。北海道小氷期の古環境やアイヌの人々の生活実態を調査することの意義などについて北海道立北海道博物館学芸員で研究代表者の添田雄二氏に聞いた。
(聞き手=湯朝肇・札幌支局長)

貴重だった短い夏に育つカブ
噴火や津波の痕跡手掛かりに

まず、プロジェクトの研究テーマは「小氷期最寒冷期と巨大噴火・津波がアイヌ民族に与えた影響」ということですが、この研究を取り組むきっかけになったのは何だったのでしょうか。

添田雄二氏

 そえだ・ゆうじ 1973年5月生まれ。札幌市出身。北海道教育大学岩見沢校卒業。北海道開拓記念館(現北海道博物館)学芸員。専門は地質学、古生物学。2011年に鹿児島大学大学院理工学研究科にて理学博士を取得。近年の研究テーマは「地質学的・古生物学的手法による第4紀の環境復元」。

 近年、地球温暖化が自然環境や人間社会に大きな影響を与えていますが、20世紀初頭以前の数百年間は小氷期と呼ばれる寒冷期にありました。とりわけ、1645年から1715年まではマウンダー極小期と呼ばれる寒冷期がありました。この時期、日本国内の寒冷状況について本州では古文書があるので、おおよその実態を知ることができます。

 しかし、北海道では当時アイヌの人々がおりましたが、まだ文字を持っていなかったことから古文書がありません。松前藩の古文書はありますが、断片的でその時代の様子を知るには難しい側面があります。

 当時の記録が極めて少ない中で、気象状況を含めた環境を調べるとすれば、私の専攻の地質学からの調査では、土中に穴を掘って地層の形成や土壌の成分、さらには顕微鏡でしか分からない微化石を調べることで当時の様子を解明することができるのではないか、と考えたわけです。

 したがって、研究のきっかけは小氷期の中でも最も寒冷なマウンダー極小期の北海道の気候はどのようなものだったのか、という点にありました。また、当時の北海道は12世紀後半までの擦文文化からすでにアイヌ文化に移行した時期でしたので、そうした気候変動期にアイヌの人々がどう暮らしていったのかを研究テーマにしていきました。

マウンダー極小期はどの程度気温が下がったのでしょうか。

 時代と地域差がありますが、平均すると今よりも1度ほど低かったと言われています。ただ、それは地球的規模でしかも数百年間を平均した値なので時と場所によってはかなり差があったと考えられます。そうでなければ一度に世界で何百万人も死ぬわけがありません。

 本州で樹木の年輪を調査している研究者によればマウンダー極小期には5度くらい低かったという学者もいます。私は、当時は今よりも2、3度低かったのではないかと見ています。

調査地が道南に位置する噴火湾の奥座敷ともいうべき伊達・有珠地区ということですが、どうしてそこになったのでしょうか。

 マウンダー極小期にあった1640年に道南の駒ケ岳が噴火した際、山頂部が海へ崩落したため巨大な津波が発生し、噴火湾沿岸を襲いました。

 また、1663年には8月16日から約半月にわたって噴火を続けた有珠山噴火がありました。その噴火は火山爆発度指数が5レベルという大噴火で、火山灰や軽石は十勝地方まで到達しています。伊達・有珠地区には、これら巨大噴火と津波の痕跡である火山灰や海から津波で運ばれてきた砂が地中やそして遺跡にも残されているのです。

 一方、伊達・有珠地区には、アイヌの人々が暮らしていたことを示す遺跡が数多く発見されています。つまり、小氷期中の北海道では、ちょうどアイヌ文化が展開されていたわけですが、伊達・有珠地区の場合は他の地域と違って、遺跡に残された巨大噴火と津波の痕跡を手掛かりにすることで、最も寒冷であったマウンダー極小期に使用されていた畑跡や貝塚、住居跡が分かるのです。

 小氷期を正確に把握し、当時の人々にどのような影響を与えていたかを明らかにすることは、これまでにない視点でアイヌ文化を捉えることができるという点で意義があると考えています。

新しく解明された点があるのでしょうか。

 いくつかの新しい点が解明されつつあります。一つは、同地区の地層を調べることで1640年の駒ケ岳の大噴火によって発生した津波は有珠湾では特に規模が大きくなっていたことが分かり、その規模遡上範囲が明らかになってきました。

 また、1663年頃の畑跡で発見した作物の痕跡から、当時のアイヌの人々は根菜類(カブ)を作っていた可能性が痕跡の形や土の中の成分分析などで明らかになってきました。とりわけカブは夏の期間が短く寒くても育つ作物としてアイヌの人々は非常に貴重視していたことが、1800年代に江戸幕府が蝦夷地に派遣した人々の記録から分かります。

 また、有珠山の遺跡からラッコの子供の骨が出てきているのですが、当時ラッコが道南地方まで生息していたのではないかと考えられるのですが、その根拠を調査しているところです。さらに、噴火湾沿岸域では初となるアイヌの人々のチセ(家)跡を発見していたのですが、今回の調査でその柱穴から、寒冷期にある当時の住居がどのような形になっていたのか空間的な側面から描くこともできるようになってきました。

今後は、この研究プロジェクトをどのような形に発展させたいと考えていますか。

 われわれのプロジェクト研究は過去に行われた遺跡発掘調査のデータを使うのではなく、具体的に存在する遺跡を研究目的に合わせて発掘し遺物や土壌を分析しながら小氷期の実態を捉えていくことができるという利点を有しています。

 今後、現地調査を続けていく中で研究のターゲットがより精査されていくと同時に分析手法は増え、より広範囲な学際プロジェクトになると思います。一方、本研究は平成30年度が最終年度に当たるため、一般向けの成果広報を積極的に実施していきたいと考えています。具体的には、地元小学校児童を遺跡発掘現場に招いて説明会の開催や、洞爺湖有珠山ジオパークと連携してバスを利用した特別ジオツアー(遺跡発掘現場見学会)の実施を計画しています。