主役だけじゃなく脇が大事 没後20年、黒澤明監督
(株)黒澤エンタープライゼズ元専務 渡辺清也氏に聞く
黒澤明とジブリに浮世絵――。この三つはじっくり勉強しとかないと外国で恥をかく。とりわけ黒澤明監督に関しては外国人の方がよく知っているほどだ。「世界のクロサワ」となった監督が亡くなって20年。“身内”として接してきた(株)黒澤エンタープライゼズ元専務の渡辺清也氏に、内から見た監督の実像と家族を語ってもらった。
(聞き手=池永達夫)
一貫した映画哲学
大黒柱として支えた夫人
身近に接してきた渡辺さんから見た黒澤明監督は、どういう人物だったのか?

わたなべ・せいや 昭和22年、新潟県生まれ。東宝入社後、黒澤久雄氏と(株)黒澤エンタープライゼズを立ち上げ専務に。久雄氏と一緒に米国2万キロを旅して回るロードムービードラマ「またたびUSA」(テレビ朝日、主演者「渡辺篤史、麻田浩、篠ひろ子、森光子、樹木希林」などを製作。
成城の家では監督から「なべさんはコーヒーも入れられない人だから」と言っては、よくコーヒーを入れてくれた。
夫人から聞いた話によると、監督が家に帰ると後ろを一顧だにせず、すべて全部どんどん落としていく人だったという。
玄関に入ると、靴も靴下も右左ばらばらで、帰っているとすぐ分かる。
監督は子供みたいに天真爛漫(らんまん)な自由人だったが、こと映画になると人間が変わった。家族も周囲も神経を使った。映画芸術に生涯、こだわり続けた人だった。
人を殺すシーンでも、その人物像をしっかりさせないと監督は気が済まなかった。人物像の未来も過去も見えているから、どういう殺し方をしたらよいか、殺す方法も詳細に演出する監督だった。殺す方法といっても、いろいろある。身をゆがめて苦しんだり、ギロチンだとかでスパッと死んだりさまざまだ。それをいつも考えている監督だった。
そういうことを含め就寝前、毎日のように原稿用紙に向かい書き物をしていた。大体、400字詰めで3枚、1200字程度の原稿だった。だから、そうして書いたものが山のようにうずたかく残され、ライブラリーになっている。
シナリオを考えたり、いろいろ“引き出し”を日々、ためておいたのだ。
それは日記ではなくて?
いろいろ思いついたりしたことを書きためて、将来の作品に生かすためだったように思う。それほど映画にこだわりを持っていたということだろう。
監督の趣味は?
マージャンが大好きだった。何より家が明るくなり、にぎやかなのが好きだった。だから、お客さんはウエルカムで家はいつもオープンだった。
犬も好きで、狛江の家ではセントバーナード犬を飼っていて、よく散歩に連れて行っていた。代官山の時には、白いチワワを飼っていた。
監督はロシアの血が混じっているのではないかと言われるが?
確かに薄い水色の目をしていたし、背丈は190センチ、ちょっと日本人離れしている。
父親の出身地である秋田県黒澤村には、ロシアに行っている人がいたとされる。
少なくとも監督の豊かな発想は日本人とは違うような気がする。例えば映画「用心棒」で仲代達也が歩いて行く。テイク1、テイク2だけでは終わらない。
テイクというのは?
「用意、スタート」で場面を切り取っていくことを言う。その数が1回や2回じゃない、納得がいくまで何十回もやらせる。エキストラに対しても、その他多数というのじゃなく、ちゃんとこだわりを持っていて、その演技を求める。
役者は主役だけでなく、脇が大事だというのが映画を作る上で、一貫した哲学だった。
黒澤映画の中で、一作品だけ選ぶと?
シュルべーマンというフランスのプロデューサーと、「乱」は共同制作された。
クランクインするまで僕は、契約などに立ち合い、どっぷり漬かった。
僕が一番汗を流したのは「乱」だった。その意味でも思い入れが強いのが「乱」だ。
なお、その件に関し僕は監督に聞いたことがある。
「乱」がまだ始まっていない時だったが、今まで作った映画で何が一番、良かったのかと尋ねた。
すると監督は「自分が作った映画を、たくさんの人に見てもらいたい。一番、見られていない映画が1本だけある。それは『虎の尾を踏む男』だ。これが僕にとっては大切なんだよ」と述べた。
エノケン(榎本健一)さんが主役の映画で、勧進帳の話だ。時代の流れもあって、その映画は残念ながらはやらなかった。監督は「大切」という言葉を使った。
なお、映画製作は1984年に「乱」がクランクインして、85年に配給。その後、「夢」、「8月のラプソディー」と続き、「まあだだよ」が最後の作品になった。
監督の家族は?
夫人は、監督の2作目となった「一番美しく」という映画の女工役で主役を務めた女優矢口陽子氏だった。監督と同年齢で親しかった東映の佐伯清監督が、ミカン箱でテーブルを作り、黒澤明と矢口陽子の間を取り持った。監督は、照れ屋で人見知りで恥ずかしがり屋だった。
明るく優しい中に厳しさを持っていた夫人は、黒澤家の大黒柱だった。夫人もマージャンが大好きで、とても強かった。でも最後は、なぜか負ける。そうした形で、皆に小遣いをあげていた。
子供は長男の黒澤久雄氏と妹の和子氏の2人。
久雄氏は成城大学在学中にアメリカに留学。66年にフォークバンド、ブロード・サイド・フォーを結成してボーカルを務め、TV番組『若者たち』の主題歌をヒットさせ、初代アイドルとなった人物だ。監督は久雄氏から音楽に関する多くの知見を得ている。
和子さんは衣装デザイナーで、NHKの大河ドラマ「西郷どん」の衣装担当にもなっている。





