西郷隆盛に学ぶ、鹿児島では神のような存在

夢開拓学校副塾長 冨山正勝氏に聞く

 NHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」で盛り上がっている鹿児島。初回の視聴率は34・9%で関東地区の2倍を超えた。西郷隆盛は全国的に人気のある英雄だが、鹿児島ではそれ以上に神のような存在。地元で西郷など先人の夢を引き継ぐ活動を行っている夢開拓学校の冨山正勝さんに話を伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

教育熱心だった薩摩藩
郷中教育で先輩が後輩指導

鹿児島県人として「西郷どん」はいかがですか?

冨山正勝氏

 とみやま・まさかつ 昭和28年鹿児島県生まれ。鹿児島大学教育学部部卒業。神奈川県で小学校教師を務めた後、南さつま市で育英ゼミナール加世田校校長に就任。学習塾を経営しながら南薩倫理法人会会長、鹿児島東高校PTA会長など務め、平成30年より夢開拓学校副塾長。

 郷土として有り難いですね。家族で見ていますので、家族の会話も弾みます。西郷隆盛は鹿児島県人の誇りで、県下では各地で西郷ゆかりの地を整備し、観光客を迎えています。私が中学3年生の時の明治維新100年より盛り上がっています。

 これまで西郷さんの幼年時代が描かれたことはあまりなかったので、第1回で郷中(ごじゅう)教育がきちんと描かれていたのはよかったです。

 郷中教育は薩摩藩における伝統的な教育法で、定められた区画に住む子供たちを年齢別に四つのグループに分け、選ばれたリーダーが指導します。小稚児(こちご、6~10歳)、長稚児(おせちご、11~15歳)、二才(にせ、15~25歳)、長老(おせんし、妻帯した先輩)という区分けで、先輩が後輩を指導しながら学問や武術を学ぶので、相手への思いやりが生まれ、強い絆で結ばれるようになります。

 西郷が生まれた下加治屋町は、甲突川(こうつきがわ)の東側にあるわずか1万坪ほどの広さで、幕末には70余軒があるだけでした。

 不思議なのは、この狭い土地から幕末・維新の英雄たちが多数生まれたことです。西郷に大久保利通、日露戦争で日本を勝利に導いた東郷平八郎と大山巌(西郷の従兄弟)、内閣総理大臣の山本権兵衛、鉄道の施設に尽力した吉井友実(ともざね)など多彩で、地元では「明治維新と日清・日露戦争は下加治屋町でやったようなものだ」という自慢も聞こえるそうです。

明治以降、郷中教育はどうなりましたか。

 明治以降は「学舎教育」として引き継がれました。学舎は学校と異なり、年齢の違う子供が集まって一緒に勉強をしたり、武術を学んだりする場で、現在も10カ所ほど残っています。

 明治7年、下野した西郷隆盛は旧鹿児島城(鶴丸城)内に陸軍士官養成のため「幼年学校」「銃隊学校」「砲隊学校」の3校を設立、これらが「私学校」です。

 西郷をはじめ鹿児島県令の大山綱良、桐野利秋、また参議の大久保利通も資金を提供し、県も支出しているので私学校と言いながら半官半民で、鹿児島県内各地に140の分校が設置されました。

 教務は主に漢文の素読と軍事教練で、西郷に続いて軍や警察、官庁を辞め、鹿児島に帰ってきた人たちが校長や教官になりました。生徒数は3万人に及び、その出身者が鹿児島の各分野に進出していったので、鹿児島は一種の独立国のような様相を呈するようになります。

 これに対する政府の懸念が、後の西南戦争につながったわけです。

薩摩藩は教育に熱心だったのですね。

 南さつま市にある竹田神社は、島津家中興の祖・島津忠良を祀っています。忠良は日新斎(じっしんさい)の号で知られ、親しみを込めて日新公と呼ばれています。室町から戦国時代を生き、島津家発展の礎を築いた名将が残したのが、人の生きる道を諭す「日新公いろは歌」47首です。「いにしへの道を聞きても唱へても わが行にせずばかひなし」などその教えは今も新しいものです。

 子供から大人まで暗誦したことから薩摩藩士の規範となり、西郷隆盛をはじめ幕末・維新で活躍した藩士たちにも影響を与えました。

 竹田神社の起源は室町時代の保泉寺で、日新公の菩提寺となって日新寺と改称され、明治初めの神仏分離令により明治2年に廃寺となったので、6年に社殿が造営されました。

西郷は明治8年に島津氏から雑木林を譲り受け吉野開拓社を開きます。西郷が農業を重視したのはなぜですか。

 西郷は17歳から24歳頃まで、郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)として農民の暮らしを見続けています。西郷の申し立てにより郡奉行の迫田利済(としなり)は藩に年貢を下げるよう申し出ますが、聞き入れられず迫田は抗議の辞職をします。迫田は、役人が贅沢(ぜいたく)をするとその国は亡びると常々隆盛に話していた人なので、西郷は大きな影響を受けました。若い頃に迫田と出会ったことが、その後の西郷の人生を決定したのかもしれません。

 迫田は「虫よ虫よ 五つ節し草の根を絶つな 絶たば己も共に枯れなん」という言葉を残しています。「虫」は役人、「五つ節し草」は重い年貢に苦しむ農民のことです。重税で農民がいなくなったら、自分たちも破滅するという意味で、西郷は社会の底辺を支える人たちへの思いやりを学んでいます。

西郷は息子の菊次郎を近代農業を学ぶためにアメリカに留学させるなど、農業立国を目指していたようです。

 西郷は薩摩の理想郷を北海道につくるため、箱館戦争で新政府軍の指揮を執った陸軍軍人の黒田清隆を開拓長官として赴任させます。札幌、函館、根室、釧路、旭川などは薩摩の屯田兵が開拓し、廃藩置県で札幌県、函館県、根室県ができると、県知事に任命されたのは全て鹿児島県人です。

旧庄内藩が明治5年に松ヶ岡を開墾し、大規模な桑畑と養蚕施設を造ったときにも西郷が支援しています。

 始まりは、戊辰戦争での敗戦で薩摩軍が庄内藩に寛大な処遇をしたことです。西郷に感謝した庄内藩は、鹿児島に藩士を派遣して西郷から学ぶようになり、廃藩置県で酒田県になると、失職した士族3000人のため、西郷の応援で開墾を計画したのです。現在も松ヶ岡開墾場として観光史跡になっています。

夢開拓学校の活動は?

 社会貢献活動塾という位置づけで、「鹿児島の先人に学び未来を語る会」と題する講演会を開くなど地域の教育活動を行っています。