「懺悔の生活」から「祈りの経営」へ

西田天香とダスキン創業者・鈴木清一

燈影学園長 相 大二郎氏

 資本主義の倫理が問われる時代に日本的経営が見直されている。神道・仏教・儒教が融合した宗教思想に基づき、人を育て、大切にしてきたのがその良質な部分。一燈園で西田天香に「懺悔の生活」を学んだダスキンの鈴木清一は「祈りの経営」を目指した。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

「道と経済の合一」目指す
仕事の第一は人間づくり

西田天香の思想は一つの経済倫理と言えます。

相 大二郎氏

 あい・だいじろう 一燈園で生まれ育ち、西田天香の精神を40年以上、体験してきた。園では主に教育に携わり、平成23年「教育者 文部科学大臣表彰」受賞。著書に『いのちって何?』(PHP研究所)がある。

 天香さん(1872~1968)の思想は、江戸時代の石田梅岩と二宮尊徳の系譜に連なっているように思います。

 梅岩は今の亀岡市の農家に生まれ、11歳で呉服屋に丁稚(でっち)奉公し、独学で儒教、仏教、神道を学びます。45歳の時に塾を開き、後に「石門心学」と呼ばれる思想を説きました。商いを卑しむ時代に、「商業の本質は交換の仲介業で、他の職分に何ら劣るものではない」と説き、商人の支持を得ました。

 尊徳は今の小田原市の農家の生まれで、早くに父を亡くし、災害で破産した家を20歳で再興しました。小田原藩の家老の家計を立て直したことが藩主に認められ、各地の農業再生に尽力します。

 その基本は「分度」と「推譲」で、分に応じた生活を守り、余剰分を社会のため投資するものです。藩主に対しても節約を説き、上に立つ者は一番下の生活をしなければならないという思想を、天香さんは尊徳から学んだようです。

 天香さんは21歳の時に、長浜の農民を率いて北海道の開拓に取り組みますが、経営不振や出資者と農民との板挟みで辞任し、左足中指を切り落として帰郷します。

 その後、禅僧に師事し、トルストイの『わが宗教』を読んで感動します。明治37年、32歳の時に八幡神社境内の愛染堂で断食坐禅をした3日後、泣く赤子に乳を含ませる母の行為から、損得を超えた関係に目覚めました。

 宗教思想家の綱島梁川の紹介で天香さんは世に知られるようになります。足尾鉱毒事件の田中正造や社会主義者の木下尚江とも交流し、資本主義とは違う経済を求めていたようです。

 41歳の大正2年に女性から京都・鹿ヶ谷の家屋を喜捨され、「一燈園」と名付け、無所有の共同体生活を始めました。

 その生活は「無」と「有」から成り、無に徹すると信頼され、人や物を預かるので、そのために宣光社をつくりました。

 今、一燈園がある山科区の土地は、天香さんが57歳の時に近江八幡市の人から喜捨されたもので、預かったと考えていました。所有ではなく「預かる」という概念が天香さんの経済倫理の基本です。宣光社は、印刷に始まり、出版、建築、農業、演劇、教育などに事業を広げ、現在に至っています。

ダスキンを創業した鈴木清一も一燈園に学んでいます。

 鈴木さんは明治44年、愛知県碧南市の生まれで、老舗の蝋(ろう)問屋である川原商店東京支店に就職後、肋膜(ろくまく)を患い、養母に救われた影響から金光教に入信します。その後、大阪勤務になりますが、大阪商法に馴染めず結核を再発、故郷で療養中に天香さんの『懺悔の生活』を読んで一燈園に入園しました。

 托鉢(たくはつ)求道の生活を始めたのですが、天香さんに事業を続けるよう勧められ、川原商店に戻ります。その後、戦争で輸入困難となった蝋の代用品のワックスを開発し名声が高まります。

 昭和18年に天香さんの満州講演旅行に随行し、滔々(とうとう)と時局を述べるのではなく、やってきた下座行を淡々と語る天香さんを見て、「道と経済の合一」の実現を目指し開業を決意します。19年にツヤ出しワックスが切削油になることから航空油剤の会社を設立し、終戦後、亡き友人の法名から社名をケントクと改め、「祈りの経営」を追求するようになります。

 昭和25年に本社を愛知から大阪に移転し、板の間廊下のツヤ出しワックスを売り出し、33年にはビルメンテナンスや清掃用品を販売するケントク新生舎を設立します。

 一燈園で社員研修を行い、仕事の第一は人間をつくること、働くことが楽しみで、利益は喜びの取引から生まれるという考えから、社員を「働きさん」、給料を「お下がり」と呼ぶようになります。

 昭和34年には、キリスト教精神に基づく経営を進めるエヴァンズ博士の講演に感銘し、36年に渡米すると、博士の紹介でカナダのメンデルソン氏と知り合い、ダストコントロール事業の技術を無償で伝授されます。

 帰国後、ダストコントロール事業に着手した鈴木さんは、活性剤を用いて繊維に油類を吸着させる「含油繊維の製造方法」を特許出願し、商品化にも成功して現在の事業の原形となる商品が誕生します。ところが37年、ケントク新生舎と他社の合併によるサニクリーン東京を設立したのですが、ケントクの株をジョンソンワックス社に譲渡したため、庇(ひさし)を貸して母屋を取られる形で経営権を失います。

 一燈園に帰ってきた鈴木さんを天香さんは赤飯を炊いて迎えました。鈴木さんは「決して負けない。ここで脱皮する」と話していました。昭和38年にダスキンを設立し、掃除用具のレンタル事業を全国展開します。ダスキンの名称は、ダストクロス+ぞうきんから付けたそうですが、最初のパンフレットには「脱皮」の文字があり、「脱スキン」からダスキンと名付けたのではないかと私は思います。

 40年に「ホームダスキン」が大ヒットし、米国式の契約によるフランチャイズではなく、愛情と誠実で結ばれた日本的フランチャイズを目指そうとダスキンフランチャイズチェーン全国連合会を発足。45年、国際フランチャイズ協会年次大会に出席のため渡米した折、ミスタードーナツ社と提携しました。

 鈴木さんの言葉から取られた「ダスキンの経営理念」には、「自分に対しては、損と得とあらば損の道をゆくこと。他人に対しては、喜びのタネまきをすること……」とあり、天香さんの経済倫理を経営に実現した典型と言えます。