愛に包まれた最期を、世界の人に
カナダで「看取り士養成講座」開催
日本看取り士会会長 柴田久美子さんに聞く
今年建国150年を迎えるカナダで、第2回の看取り士養成講座を開いた看取り士の柴田久美子さんに、その様子を伺った。急速な高齢化で、大量死の時代を迎える日本。しかし、看取りの文化を回復すれば、愛に包まれた最期は可能だという。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
看取りの文化回復へ
両親との関係回復が大事
カナダで看取り士養成講座を開いたのは?
去年5月、ブリティッシュコロンビア州の州都ヴィクトリアで初めて開き、今年の6月、同州での開催が2回目になります。7日から16日まで滞在し、8日には同州バーナビー市(バンクーバーの西隣)で講演会を行いました。
企画したのは、元キャビンアテンダントでカナダ人と結婚し、バンクーバーに住んでいるピーターソンめぐみさんで、3年前、彼女が、看取り士になりたいと、一般社団法人日本看取り士会と「なごみの里」がある岡山に来たのが始まりです。彼女はカナダでも看取り士の活動を広めたいと考え、私に2年間、カナダに来てほしいと熱心に言うのです。そこで、昨年、現地で養成講座を開き、彼女は看取り士になりました。今回、彼女は講師として参加しました。
参加者は日系人が多かったのですか。
日系人をはじめ各国からの移民やその子孫、カナダ人もいて、日本語の分からない人が多かったので、講座は同時通訳で行いました。日系人は日本への思いが強く、人生の最期は日本文化に包まれていたいとの思いで、講座に参加した人が多くいました。4泊5日の胎内体感講座・暮らしの作法(実習)を含む5泊6日の研修を修了すると「看取り士」資格が認定されます。日本からも14人が観光を兼ねて参加しました。
キリスト教が中心の社会で、日本的な「看取り」はどう受け入れられましたか。
その違いはあまり感じませんでしたね。カナダも日本やノルウェーと同じで、病院死が85%を占めています。多くの人が自宅死を希望しているのも日本と変わりません。参加者も、「自分の好きなところで最期を迎えられるような社会が本当に豊かな社会なのでは」という人が多かったです。
日本と同じように、カナダでも国の政策と社会や家族の変化で近年、病院で最期を迎える人が増え、家族が満足な看取りができない状況です。医療が発達し、核家族化が進んでいる先進諸国では、人の死をめぐる事情は似ているのでしょう。
死に対する不安は?
その点も日本と同じでしたね。質問も、死に対する恐れをどうしたらいいか、死後はどうなるのかなどが多かったです。死に逝く患者にどう接すればいいのか、恐怖感をどう抑えればいいのかなどの質問がありました。死生観が不明確で、死の恐怖にとらわれている感じでした。
驚かされたのは、親の最期を見るのがつらいから、生前から会わないようにしているという、30代の女性がいたことです。もしかしたら、若者の一つの傾向かもしれません。でも、講演を聞いて変わったようで、泣きながら「私が間違っていました。今度、母に会ってきます」と言っていました。
柴田さんが担当する胎内体感というのは?
胎内体感はいわゆる内観法を看取り体験に基づいて発展させたものです。参加者は、まず看取りの現場をDVDなどで学習し、次に胎内音を聴きながら、自分が母の胎内に宿り、この世に生まれてから今までのことを思い出します。すると、母親をはじめ多くの人たちのお世話になったことが分かり、慈愛の世界に戻る体験をします。
講座では、その折々に両親に手紙を書きます。自分の言葉で何度も書き綴(つづ)ることにより、気付きが促され、新たな自分と出会っていきます。そして、ありのままの自然な自分を認めて受け入れることで、体も心も楽になっていくのです。
看取りの現場で、幸せな最期にとって一番大事なことだと感じるのは、両親との関係の回復です。両親に否定的な感情を持っていると、本人が苦しみます。ですから、それが少しでも解消できるように、看取り士がお手伝いします。
人間関係の整理ですね。
何か引きずっていると、安楽な死を迎えることができません。看取り士にとって一番必要なのは人間性で、座学だけでは習得できないので、胎内体感のような体験を取り入れています。
看取りの現場を最低限の言葉にすると……
死に逝く方のエネルギーを見続け、受け取って、家族に渡すことですね。医師が臨終を告げる前から、体が冷たくなるまでが私たちの仕事なので、圧倒的に言葉にできない時間です。意識不明の状態になっても、周りの声は聞こえていると言われます。ですから、体に触れながら、声を掛け、思いのたけを話すことが大事です。
亡くなると、ご遺体に触れてもらい、温かさが次第に冷めていくのを感じてもらいます。そうした時間を一緒に過ごすことで、喪失感に襲われることもなくなります。小さな子供だと、人が死ぬということを実感する貴重な機会になります。
死の瞬間に光を見る人が多いそうです。
私は看取りの現場で何度も光を見ているので、人の命はそういう存在なのかなと思っています。私が亡くなった方に教わったのは、限定した場所にではなく、どこにでもいるということです。
例えば、父親を亡くして寂しがっていた人が、気が付けば父がそばにいたなど。愛が光のように全体を照らしているという感じです。私がそれを伝えると、家族全体が愛に包まれ、温かい看取りができます。
先日も、認知症の男性が、普段言ったことがないのに、奥さまに「愛しているよ」と言って亡くなりました。これからは、日本人が忘れていた大事なものを、見直し、取り戻していく時代のように思います。






