働く人の和こそが活力源
木立の中のおもてなし
山菜料理店「みたき園」女将 寺谷節子氏に聞く(下)
4月はいつも1年生/雪が解けて始まる料理店
森の中の「みたき園」は雪が降り積もると春まで閉園になるわけですが、一番、気合が入るのはいつですか?
雪が解けて店が始まる4月は、私はいつも1年生です。常に不安と隣り合わせで、今年もできるのかと思います。でもお客様が待ってくださっていて、いつも引っ張ってもらっているような立場です。
私は店が大変だから「いやだ、いやだ。逃げたい」と言うと、娘は「お母さん、お店に上がっているほうが、似合っとるで」と言ってくれます。
私は職業婦人のようなことは苦手です。本当は人の前に出るのは苦手ですし、台所で1人こそこそやってるほうが性にあっているのです。ただ、最近は女将としていろんな方と出会わさせていただいて、感謝に変わってきました。
桜梅桃李(おうばいとうり)という言葉があります。桜は桜、梅は梅、桃は桃、李(すもも)は李と、大自然の中でそれぞれが自分の花を咲かせます。そうした十人十色の個性あふれる人たちとの出会いで、どれほどの力と励ましを受けたか分かりません。
いろんな方と出会えて、本当にここは不思議な場所です。
従業員も競争するように働いてくれます。花でも自分たちで朝、摘んで持ってきてくれるのです。灰皿にしても竹を切るところから始まります。
主人は「お水一杯でも、再び、また来たいねと思えるような店にしたいね。それがみたきの原点だ」と言います。
従業員の和というか、丸の世界が大事です。花が咲くというのは、こういうことなんだわと思ったことがあります。朝の仕込みの時など、従業員が、わっさわっさした感じで楽しげに働いている時、そういう感じを受けたことがあります。「きれいな花園つくろう」という歌があるのですが、こういうことが「丸の世界」かなと思ったのです。
ただ、本当のことを言いますと、私は人をこき使うし、きついし、「ぱちーん」と言うタイプなのです。従業員はだから、恐れてびびっています。
みたき園の料理は手間暇かけていますね。
お料理は、よう働く人で「山ならこい、川ならこい」の人が担当していました。山菜採りでも川魚取りでも、何でもできる人で、「みたき園」の一番の土台です。
ここで生まれて育った人で、寺谷の感覚やセンスを、すぐ理解してくれました。それを10年ほどかけて、私は習わせていただきました。これは次につなげたいと思っていたのですが、50代の女性が独り立ちできるまでになったところです。
彼女のこだわりが半端じゃなくて、仕込みにしても納得できるまでやる本物志向のタイプです。化学調味料は一切、使わない。出汁(だし)も素人でしたが、いろいろ工夫して今日までに至っています。そのこだわりが、私の信頼になっているのです。彼女の魂に太いものを感じます。
彼女は、自分が納得できる仕事になっていなかったら、人から褒められても全然、うれしいとは思わない人です。お客様に「幸せ! 食べてよかった」と思えてもらえるようなお料理を出したいというのです。
みたきのお料理は、派手なこともできないし、大きな改革もできませんが、少しずつグレードアップしていくという、亀の子のような歩みの中に培われてきました。
みんなが一つの屋根の下で仕事をすれば、いろんなことがあります。だから、前向きな話し合いや喧嘩(けんか)はいいけど、あの人がどうのこうのといった悪口だけは言わないようにしてもらっています。
クリスチャンですか?
そうです。ただ、家は代々、浄土真宗の門徒総代でした。父はいつも、お寺さんのお世話をやってもいました。
高校の時、日曜学校でお手伝いをしたかったのです。上に姉が高校2年の時亡くなりましたが、女兄弟が4人で、中学からカトリックのミッションスクールに行ってました。
家から反対は?
もちろん、ありました。でも、自分で言うのも何ですが、それまでとてもいい子だったのです。一度だって親に口答えしたことも反抗したこともありません。でも大学を卒業してから、病気をしました。入院したのですが、帰れないのに帰りたいと無理を言って、聖書1冊だけ持って、お盆に帰らせてもらったことがあります。
聖書は自分が持とうと思ったことはないのですが、自然に与えられたものでした。その聖句が土が水を吸うみたいに、心に染み込んできました。聖書は神様が下さったものだったのです。目には見えないけれども、神様がおいでになるというのは私の確信になりました。その時から、退院したら、洗礼を受けさせてもらうつもりでした。
母は「家には代々、受け継がれてきた浄土真宗があるのに、なんでそんなもん、せんといけんの」と言いました。
父は昔の人で寡黙で、面と向かって私は何も言いませんでした。
ただ、人間というのは、いっぱい埃(ほこり)をかぶって、信仰的には後は曇ってしまってすりガラスのようでした。それでも、その時だけは透明だったと思うのです。
それで何十年も教会からも離れていたのです。そしたら、娘に神様の話もしたこともないし、聖書も読んでやったこともないのですが、それなのに娘が中学生の時に「教会に行きたい」と言うのです。「じゃ、行こう」ということで、教会に連れて行ったのです。
そしたらシスターが出ていらして、勉強しませんかと誘っていただきました。それで一緒に受けたのです。だから改めて、彼女が私を連れて行ってくれたようなものです。
神様はちゃんと自分の掌(てのひら)の中に、私を載せていたのです。「ミサに行く」と主人に言うと「ああいいで」と言ってくれます。
最近は行けないことも多くなったのですが、そうしたら神父さまが日曜日に智頭(ちづ)まで来てくれて出前ミサをしてくれるということもあります。
出前ミサというのがあるのですか?
私が勝手に言っている言葉です。
とても自由な神父さまで、ここは全部、神様のものですから、ここでミサしてもかまわないというのです。ちゃんとご聖体持ってきてくださって、うちに泊まっていただいたこともあります。
信仰は無いのに、主人は神父さまと話すのが好きで、食事しようとか言ってくれます。
まあ、好きに泳がせてもらっている感じですかね。
私は寺谷の嫁ですから、舅(しゅうと)、姑(しゅうとめ)を送るというのが大きな役割としてあります。そしたら、病院で義母が最期に感謝の言葉を「ありがとう」って何べんも言ってくれたのです。
「言うとえらいから、分かっているから」と言っても、「ありがとう」と繰り返すのです。それで「もう寝ましょうで」と言うと「わしも寝る」と言ってくれたので、子守歌を歌うと眠ってくれました。そのまま、大往生でした。
私も寝てしまって、2時間ほどたって、息が無いのに気づいてびっくりしたのです。
「最後、いてあげなくて悪かった」と思って、和尚さんに言うと「お母さんは、きっとあなたを寝させたかったのでしょう」と言ってくださって、そう思わせていただくことにしました。
和尚さんによると、人は死んでいく時、一人というのは大事なことなんだというのです。やはり、それに集中する必要があり、まわりがあると、集中できないこともあると言われました。布団も跳ねたりしていなかったから、苦しくなかったかもしれません。
そう思って義姉に、「お姉さん、ごめんなさい。その時に起きていなくて、寝ていたの」と断りをいれたことがあります。すると義姉は「いやいや、あんたがおってくれた時でよかった」と言ってくれました。
義母が亡くなっても、なんとなく義母が一緒にいてくれているような気がするのです。お仏壇でチンと鳴らして「おばあちゃん、最近は長いこと来ていないのとちがう?」とか、勝手におしゃべりしています。
(聞き手=池永達夫)