お坊さんは総合的な相談相手
これからのお寺の役割
称讃寺住職 瑞田信弘氏に聞く
香川県高松市にある浄土真宗本願寺派の称讃寺は毎年秋、総本山善通寺で宗教学者の山折哲雄氏をメーンゲストに専門家を招き「心と命のフォーラム」を開いて10年目になる。とかく葬式仏教と批判される中、生きている人のためのお寺を目指して活動する瑞田(たまだ)信弘住職に、これからのお寺の役割について伺った。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
心の地域診療所的役割も/宗教は良く生きる物差し
深刻な子供の貧困/生活に追われる離婚母子家庭
善通寺での「心と命のフォーラム」が10回を数えました。

たまだ のぶひろ 教員と自営業を経て寺を継いだ瑞田住職は、葬儀を通して不幸な死を多く見てきたことから、「生きる作法・死ぬ作法」と題する「心と命のフォーラム」を毎年秋に善通寺で開いている。講師は、宗教学者の山折哲雄氏をメーンに哲学者の梅原猛氏や解剖学者の養老孟司氏など。善通寺の樫原禅澄管長に瑞田住職を交え率直な話が展開される。NHKのカルチャー教室でブッダや親鸞のことを教え、人生を大事に生きてもらおうと努めている。著書に『ただでは死ねん』がある。
山折哲雄さんは称讃寺での講演は12回、善通寺で10回になります。約500人収容できる善通寺の遍照閣は願ってもない会場で、一般の会場ではなく、お寺に足を運んで話を聞いてもらうことに意味があると思います。
生きている人の仏教を目指して続けているのですが、手ごたえは?
仏教には、亡くなった時にお経を上げて冥福を祈るものというイメージがあるが、本来宗教は、より良く生きるための物差しになるものです。その意味での効果は道半ばの感じもしますが、大した宣伝をしなくても400~500人の人が集まってくれるのは、前進しているようにも思います。
今は価値観が多様化している時代ですので、同じ話を聞いても感じ方は人それぞれでしょう。昨年、話してもらった田部井淳子さんが先日亡くなりましたが、数人から1年前はどうだったのかという問い合わせがあったり、記憶に残っていることが分かりました。
フォーラムに出た人の中には亡くなる人もいて、その縁で奥さんから檀那寺(だんなでら)がないからと葬儀を依頼されることもあります。
書店では仏教関係の本には一定の人気があり、生き方のヒントを仏教に求めている人は多くいます。
NHKカルチャーの高松教室で「親鸞の教えを学ぼう」という講座を担当していますが、お金を払っても宗教の話を聞きたい人たちがいます。葬式仏教という批判がある一方で、仏教に何かを求めている人たちがいるのです。
今年は社会学者の上野千鶴子さんを招きましたが、「おひとりさまの上野千鶴子です」と自己紹介したように、女性が一人で生きて何が悪いという開き直ったような姿勢が共感を呼んでいる部分もあります。
確かに長生きすると夫婦でも最後はどちらか一人になるので、一人で上手に生き、死んでいくことへの関心は高まっています。
檀家(だんか)にもおじいさんを亡くして元気になったおばあさんは多く、動けなかったような人も旅行に出かけるなど、結構おひとりさまを楽しんでいます。男性よりも生き方上手のようです。
ところで、自分の死後について家族などに迷惑をかけたくないという人が多いのですが、葬式をしない直葬にしても、お骨の処理は誰かに頼まないといけません。むしろ、上手に世話になることを考えた方がいいのではないでしょうか。そのためには、世話をしてあげたくなるような、かわいいおじいさん、おばあさんになってほしいと思います。
気になるのは、おじいさんのお墓に入りたくないと、あの世でもおひとりさまでいたいというおばあさんが多いことです。昔は、先に死ぬ伴侶はあの世で待っているから会おうと言ったものですが、残された者がそういう気になれないのは、晩年の夫婦関係に問題があるわけで、それは生きているうちに解決しないといけないでしょう。
年金や介護保険など制度的には高齢者が暮らしやすい社会になっています。
その半面、自分の老後が不幸なのは社会のせい、政府のせいという人が増えているのは問題です。本来なら、老後までの生活設計は現役時代に自分で作っておくものです。年金もそれだけで暮らせるような設計にはなっていませんから。
高齢者福祉が充実してきたのに比べ、6人に1人という子供の貧困が増えているのは深刻です。そうなる原因は親の貧困で、特に離婚による母子家庭の多くが手当てを受けても生活に追われる状況にあります。
福祉制度も家族を大切な資源として考えられているもので、基本にある家族関係が崩れ、家族の支援が受けられなくなると支えきれなくなります。人間としての基本的な生き方を示す宗教には、家庭を健全に維持する教えもあり、地域社会でお坊さんが人々の相談相手になることで、家庭の破綻を防ぐ役割も期待されると思います。
「心と命のフォーラム」では、カトリックの曽野綾子さんや無宗教の上野千鶴子さんなど、仏教と関係が薄いような講師も招いています。
それぞれの講師に関心のある人が来てもらえばいいと考えています。お寺に来たことをきっかけに仏教に関心を持ってもらえればいい。称讃寺の檀家や近くの人だけでなく、県内各地から集まっています。ある意味でカルチャーセンターのような感覚で、思想家で武道家の内田樹さんや上野千鶴子さんの時には若い人たちが目立ちました。
お寺という環境だから語れる話もあります。
上野さんは、「こんなことはいつもは聞かないのだけど」と言って、「死後の世界はあると思いますか、ないと思いますか」と聴衆に問いかけました。上野さんは、「私はないと思う」と言っていたのですが、そう聞かれることで、みんなが死について考えるいい機会になったと思います。死者を供養する思いが宗教の始まりで、夫の墓には入りたくないという人も、死後の世界を信じているからそう思うのでしょう。
死後の世界は信じられないという人も、大好きだった祖父が亡くなると、線香を上げて供養したいと思うものです。それは人間としての自然な感情で、仏教が渡来してくる前から続いているものです。故人に、自分の遺骨は散骨すればいいと言われていても、粗末には扱えないという感覚があるのは、人類のDNAに刻まれているからでしょう。
死後の世界について二者択一的に聞かれ、「ないと思う」と答える人も、心の底ではそう言い切れないものを持っているのではないか。だからこそ、死後のことについていろいろ考えるのであり、そんなことを話せる機会を求めているのだと思います。それが人生についてより深く考えるきっかけにもなりますから。
お坊さんの役割も変化してきています。
お坊さんの中にも教学に詳しい人や作法、歴史、音楽に詳しい人、布教に熱心な人など、それぞれ特徴があります。地域医療では総合医が求められていますが、地域のお坊さんにも同じような役割が求められていると思います。人々のいろいろな相談に乗り、自分の手に負えないことは、医師や弁護士などの専門家を紹介するというタイプです。相談できる人が地域にいることで安心感が増します。
葬儀の核心を考えると、信頼できるお坊さんに引導を渡してほしいという思いがあります。
そのためには生きているうちに信頼関係を結ぶ必要があります。どの宗派でも、廃寺が増えていますので、生き残るためにも葬儀や法事以外の活動に力を入れる必要があります。





