神仏を共に敬う日本人

江戸時代までは自然な信仰

生田神社名誉宮司 加藤隆久氏に聞く

 古来、恵まれた自然環境の中で日本人は自然と親和的な精神文化を育んできた。その上に仏教を受容したので、江戸時代までは神仏習合が自然な信仰となった。明治初めに神仏分離令が出されたが、家庭には神棚と仏壇のあるのが一般的である。そうした日本人の宗教的寛容性について、「神仏霊場会」第2代会長を務めた生田神社の加藤隆久名誉宮司に話を伺った。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

西国、近畿は一大聖地/山野に神は鎮まり仏は宿る
高田老師の影響で寺回り 「雪隠居士」とのあだ名も

神仏霊場会を設立されたのは。

加藤隆久

 かとう・たかひさ 阪神・淡路大震災で社殿が崩壊した時、加藤宮司は、茫然(ぼうぜん)自失の中、天からのように父の声を聞いたという。「おまえは大学の先生で文学博士だが、神社を建てているか? 私は滋賀の多賀大社と焼けた岡山の吉備津彦神社、そして大東亜戦争で600発の焼夷(しょうい)弾で焼失した生田神社の、生涯に3遍も神社を建て、造営の宮司と言われた」。その声に励まされ、神戸復興のシンボルになろうと、社殿の再建に立ち上がった。昭和9年岡山市に生まれ、國學院大學大学院神道学専攻修士課程修了し、神戸女子大学教授などを経て生田神社宮司となり、現在は名誉宮司。神社本庁長老、神戸芸術文化会議議長、神戸史談会名誉会長、神仏霊場会顧問としても活躍している。

 わが国には神や仏の聖地が数多くあり、山川林野に神は鎮まり、仏が宿っている。聖地は神と仏との出会いの場で、人々は神や仏を求めて山岳や辺地で修行し、神社や寺院に参詣してきた。そのような聖地が特に紀伊、大和、摂津、播磨、山城、近江などに集中している。

 これらの地には、わが国の本宗と仰ぐ伊勢の神宮をはじめ歴史ある神社や南部各宗、天台、真言、修験などの寺院が建立され、その後、浄土門各宗派、禅門各宗派、日蓮宗など鎌倉諸宗派が栄えた。そして伊勢神宮や熊野、高野への参詣、西国三十三観音霊場巡礼、各宗派の宗祖聖跡巡礼などが時代を超えて行われている。

 西国、近畿は神と仏の一大聖域で、ここには悠久の山河と信仰の歴史に刻まれた祈りの道がある。これら神社や寺院への参詣、巡拝、巡礼は多くの史書、参詣記、巡礼記、道中記の類に記されている。こうした由緒深い神仏が同座し、和合する古社や古刹(こさつ)を中心とする聖地を整えようとして平成20年に神仏霊場会が設立された。

同年9月8日には、神仏霊場会発足の奉告祭と神宮公式参拝が伊勢で行われた。

 皇學館大學記念講堂での奉告祭は私が斎主を、東大寺長老の森本公誠師が導師を務め、祝詞奏上、表白(ひょうびゃく)に続いて「般若心経」を唱え、生田神社雅楽会が神楽「豊栄舞」を奉奏した。

 森本長老は「神仏界に身を置く者の責めを探り、宗教の新たな叡智(えいち)を学び、人々に潤いとぬくもりを呼び戻そう」と表白を読み上げ、聖護院門跡ほか各寺院の門主や管長らによる般若心経は荘厳だった。その後、神宮に参詣し、私に森本長老、神社本庁副総長の田中恆清(つねきよ)石清水八幡宮宮司、半田孝淳天台座主が御垣内参拝した。

 この4人を先頭に神仏霊場会の会員が4列に並び、五十鈴川にかかる宇治橋を渡る光景は圧巻で、とりわけ天台座主の伊勢参りは初めてのことで、多くのメディアで報道された。

東日本大震災後の6月9日、神仏霊場会は東大寺で「神仏合同東日本大震災慰霊追悼復興祈願会」を挙行した。

 1995年1月17日、阪神・淡路大震災で生田神社は社殿が倒壊したが、瓦礫(がれき)の中から立ち上がる神戸市民の証として再建に邁進(まいしん)した経験から、神仏霊場会2代目会長として私が呼び掛け、実現したものだ。

 祈願場の東大寺大仏殿は、奈良時代に、天災と飢餓の国難に立ち向かうため、聖武天皇が「一枝の草、一把の土を持て像を助け造らん」と願う多くの民の協力により造立したもので、しかも、盧舎那(るしゃな)仏坐像(大仏)は宇佐神宮の八幡神の助力を得て完成した、神仏一致の象徴といえる仏像であることから、国難において神道界と仏教界が合同して祈りを奉(ささ)げるのにふさわしい場として選ばれた。

 祈願会では僧侶と神職が2列になって大仏殿に入場し、東大寺長老と式衆による唄(声明)と散華(さんげ)に続いて、導師の北河原公敬・同寺別当(神仏霊場会副会長)が表白を読み上げた。

 「古来われらが祖先は神仏を共に尊崇し、神仏への祈りに心の安らぎを求めてきた。しかし、地球自然の破壊力にはかなわない時があり、人知を超えた国難が東日本を襲った。度重なる罹災苦難があったが、世の人々共に蘇(よみがえ)ってきた盧舎那大仏に神仏合同の祈りを奉げることで、被災地の神仏の霊威が回復し、物故者の御霊(みたま)が安らかとなり、被災地の早期復興がなりますように」

 斎主の私が祈願詞を奏上したのに続いて、神職たちが大祓詞(おおはらえのことば)を奏上、神職代表が玉串を奉奠(ほうてん)した。東大寺の僧侶たちが「般若心経」を読経する中、僧侶代表と神仏霊場の満願者代表が焼香し、犠牲者の冥福と復興を祈願した。

加藤宮司は学生時代からお寺参りが好きだったそうだが。

 大学進学について生田神社宮司だった父”次郎(りょうじろう)は神戸市内の大学へ進学せよと言い、旧制高校から大学を開学して3年目の甲南大学を勧めた。私は甲南大に入学するとクラブ活動として、古美術研究会と歌舞伎文楽研究会に入部した。

 関西は奈良や京都を中心に古美術の宝庫で、毎週日曜には奈良や京都の寺院を主に古美術行脚に明け暮れた。奈良の法隆寺、薬師寺、唐招提寺、東大寺、室生寺、京都の南禅寺、知恩院、西芳寺、竜安寺、大徳寺、浄瑠璃寺などを見学し、夏には薬師寺や南禅寺、知恩院で合宿し、神職の息子でありながら寺院の古美術品の見学に学生生活を費やした。古美術研究会には彫刻、建築、庭園、絵画、考古学の研究班があり、私は建築班と彫刻班に属した。

 この会のおかげで薬師寺の高田好胤(こういん)管長には兄弟のように親しく接してもらい、教えを受けた。薬師寺の境内に建立された佐々木信綱の名歌「逝く秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲」の除幕式にも出席でき、川田順、落合太郎、前川佐美雄先生の謦咳(けいがい)に接することもできた。また『大和古寺風物詩』の亀井勝一郎氏を甲南大学に招き、講演していただいたのも忘れ難い。神社界では私が一番多く寺参りをしていると思う。

高田老師の思い出は。

 当時の薬師寺は塀が崩れたままのような状態で、好胤さんは副管長で法光院におられた。そこで合宿していると橋本凝胤(ぎょういん)管長が講話に来てくれた。

 その時、私は手洗いにいて、戸を開けると音がするので、そのままじっとしていたところ、話が長く、夏の盛りなので大汗をかき、やっと話が終わったのを見て出てきた。すると、あきれた好胤さんに「雪隠居士」というあだ名を付けられた。

 以来、家族ぐるみのお付き合いをするようになり、私が神戸で結婚式を挙げた昭和30年3月30日は薬師寺の大切な花会式なのに来てくれ、「吉祥天に似た奥さんをもらって幸せだ」という話をしてくれた。

 阪神・淡路大震災で生田神社が被災した時には、かなり体が弱っていたにもかかわらず、秘書を当日夜に見舞いに寄越(よこ)し、数日後、信徒を連れ見舞いに来てくれた。また、好胤さんは神宮の神嘗祭(かんなめさい)には必ず信徒を引き連れて参列し、僧侶として神仏和合を地で行っていた。戦没者の慰霊の旅もよくして、”國神社への参拝も欠かさなかった。

 好胤さんは修学旅行の中高生に話をするのが好きで、「三重塔のもこしはスカートや」とか「奈良は寺ばかりやとぶつぶつ(仏々)言うとるけど」など冗談を言いながら、「般若心経」の意味など分かりやすく解説していたのが懐かしい。私が寺回りをするようになった一つの要因には、好胤さんとの友情が大きい。