縄文人の精神性を探る 文化の基層にある「再生」思考

考古学者 大島直行氏に聞く

 世界でも類例のない日本の縄文遺跡群を世界文化遺産に登録しようという動きが北海道・北東北地方を中心に活発になっている。その一方で、約1万年の長期にわたって一つの時代を形成したといわれる縄文時代には依然として謎の部分が多い。とりわけ、縄文人の持つ思考・精神性についてはほとんど解明されていない。そうした中で考古学者の大島直行氏は縄文人の精神の根底には、「再生」思考があり、彼らの生活は「再生」のイメージをシンボライズ(象徴化)した世界観で満ち溢(あふ)れているとする独自の学説を打ち出している。
(聞き手=湯朝肇・札幌支局長)

竪穴建築、「住居」の証左なし

祭祀や呪術の場/神社に受け継がれたシンボリズム

大島先生は縄文時代の竪穴式建築に対して、これまでの「住居」という捉え方に疑問をお持ちだということですが、それはどういうことなのでしょうか。

大島直行氏

 おおしま・なおゆき 縄文時代を「再生」のシンボリズムという視点で読み解く特異な考古学者である。これまで遺跡から発掘される遺物の形状や支配・被支配という唯物史観的な観点で読み解く考古学と異なって、神話や文化人類学、脳科学、心理学など多彩な分野の学問を取り入れた学説は示唆に富み、極めて新鮮な印象を受ける。現在、札幌医科大学客員教授、札幌大学講師、北海道考古学会会長。主な著書に「月と蛇と縄文人―シンボリズムとレトリックで読み解く神話的世界観」(寿郎社)、「対論・文明の原理を問う」(共著、麗澤大学出版会)など。来月20日には、「縄文人の世界観」(国書刊行会)が発刊される予定。

 縄文時代が「定住」社会であることの根拠は希薄です。これまで竪穴の建築物は「住むための家」であることを前提として縄文時代を語ってきましたが、「住居」としての証左はありません。そこに柱や炉があるからといっても、それは「住居である」という根拠になりません。少なくとも、これまでの縄文研究ではその辺の根幹の部分の検証が深くなされていないのです。仮に、「住居」としての家でなければ「集落」や「村」という解釈も成り立ちません。また「定住」という意味も曖昧になってきます。それでは、「竪穴住居」と呼ばれたものは一体何だったのか。そのあたりを解明することが縄文文化、縄文人の精神世界をひもとくカギになると考えます。

確かに「家」となると「定住」という概念が出てきますね。しかし、「家」でなければ何なのでしょうか。

 そもそも「定住」とは、歴史的にみると止(や)むに止(や)まれぬ事情によって経済的に縛られる状態をいいます。日本列島では農耕社会に転換した弥生時代以降に「定住」社会が現れますが、縄文時代は農耕社会でないかぎり、「定住」しなければならない理由はありません。

 少なくとも縄文人は土地に縛られる理由はなかった。もしかしたら、「住む」という概念さえもなかったとも考えられます。もちろん、考古学は遺跡から当時生きていた人々の土地への関わり方を読み取っていきますが、仮に縄文の竪穴建築が「家=住む=定住する」ためではなく他の理由があるとすれば、それは縄文土器に象徴されるように、すなわち模様や形の在り方から容器以外の用途を読み取れるように、「家」と呼ばれた竪穴建築もまた「家」ではなく「再生」のイメージがシンボライズされたレトリカル(強調的)な造形とみることができるのではないかということです。

大島先生が考える縄文人の持つ「再生」思考とはどのようなものなのでしょうか。

 中国系米国人の地理学者であるイーフー・トゥアンは、人間は土地に対する強い心性(トポフィリア=土地への愛)を持っていると指摘します。シンボリズムを思考基盤にもつ縄文人もまた強いトポフィリアによって彼らの世界観、生活観を確立し具現化していくことは十分に考えられます。私は以前に著わした『月と蛇と縄文人』の中でも縄文人の「再生」思考について述べましたが、彼らの中核にあった考え方は「死」を乗り越えるものとして「不死」「再生」という考え方を導きます。そしてその再生のイメージとして、形を変えて循環する「月」や脱皮を繰り返す「蛇」、さらには「女性の身ごもる姿」などに畏敬の念を抱くようになります。このような観点からすれば縄文土器の縄は単なる模様ではなく、再生の象徴である蛇をシンボライズしたものであり、土偶もまた再生の象徴であると読み解くことができます。

 こうした縄文人の「再生」思考を踏まえると、彼らのトポフィリアは、湧水や蛇行する川、山や湖沼、巨木や巨石、洞窟や岩陰などは全て「再生」のイメージの範疇(はんちゅう)としてシンボライズされていたでしょう。これまで考古学者が長い間、「住居」として疑わなかった竪穴建築や「村」と考えていた集落、さらに経済的な交易圏と考えていた他地域との関わりは単なる人が住むための場所や経済交流圏ではなく、「再生」をイメージし、シンボライズされたトポフィリアであり、「再生」を願って繰り広げられる祭祀(さいし)や呪術の場として考える方が理に適(かな)っていると言えます。

アイヌ民族は「熊送り」の儀式に見られるように、あの世に「送る」という思考・観念を持ちますが、縄文人が持つ「再生」思考とは異なるのでしょうか。

 ご存じのように縄文文化は今から1万3000年前から2300年前とおよそ1万年続いたといわれています。一方、北海道の歴史をひもとくと、縄文、続縄文、擦文文化・オホーツク文化へと続きます。アイヌ文化が登場するのはその後で13世紀ごろ。この時代になると本州との交流はかなり頻繁になっており、思想的なものもかなり流入しています。アイヌの熊送りやカムイノミといった儀式はアニミズムが根幹となっており、縄文時代の「再生」思考とは明らかに異なります。少なくともアイヌ文化では「月」や「蛇」を再生のシンボルとする考え方は主流となっておらず、何よりもこの頃には、土器の存在はありません。むしろ、刀や鉄といった戦いの武器が出回るようになります。従って、アイヌ文化では縄文の「再生」をイメージする精神性や思考はほとんど見られなくなり、ある種の乖離(かいり)がみられます。

 この点について私は、擦文文化の時代に農耕が入ってきたことに由来すると考えています。一神教のキリスト教やイスラム教はアニミズムやシャーマニズムを土着宗教あるいは原始宗教と位置付けていますが、ともに霊魂の存在や来世=あの世を前提としています。霊魂とは、人間同士の軋轢(あつれき)、とりわけそれが死に関わった場合の解決・調整手段として生み出された観念であるといえます。農耕などの定住社会になると集落が生まれ、村ができ上がりますが、そうなると当然、人と人の軋轢、村と村の軋轢が生まれます。死に関わる場面も出てくるでしょう。軋轢による「死」は人間に怖(おそ)れを抱かせ、それを回避するため死者の霊を癒やすといった呪術が必要になってきます。

 一方、農耕社会になっても縄文時代のシンボリズムの思考様式は日本の神社に色濃く見ることができます。縄文のシンボリズムを捨て去ることができず、併行して持ち続けた日本文化。他方、縄文のシンボリズムを完全に捨て去り、アニミズムを選択したアイヌ文化ともいえるでしょう。そう考えると、少なくとも人と人の軋轢がなかったと思われる縄文人には、霊魂の観念が必要なかった。むしろ死んでも生まれ変わるという「再生」思考を長い間もち続け、自然や宇宙をそのシンボライズの対象とみていたと思われます。

近年、北海道や北東北地方ではこの地域に存在する縄文遺跡群を世界文化遺産に登録しようという動きが活発ですが。

 縄文文化は日本が世界に誇りうる文化であることは間違いありません。とりわけ北海道には有数の縄文遺跡が存在します。しかし、縄文文化の本質については未(いま)だ解明されていないことが多くあります。とりわけ、縄文人の精神性についての議論は考古学会でも皆無といっていいでしょう。そうした根源的な議論がなされていないがゆえに、縄文時代は「祖父母・若夫婦、その子供たちという3世代で暮らした」とか、「定住した竪穴住居」「村の中の墓は祖先崇拝が生まれる動機になった」とまことしやかな薄っぺらい情緒的な考え方が広まっています。私は世界文化遺産に登録しようという意気込みがあるのならば、もう一度、縄文時代とはどのような時代だったのか、その根源的な議論を深めた方がむしろ得策なのではないかと考えています。