宗風一変させた田中智学 日本の近代思想と日蓮主義


里見日本文化学研究所所長 金子償氏に聞く

 西洋列強をモデルとした近代国民国家づくりが急務となった明治の日本で、廃仏毀釈で打撃を受けながらも、国民形成の思想として台頭したのが近代思想により見直された伝統仏教だ。その典型が日蓮の生命主義を明治に蘇(よみがえ)らせた日蓮主義で、田中智学が唱え、当時の知識層に大きな影響を与えた。

 彼の造語「八紘一宇」が軍国主義のスローガンに用いられたため、戦後は研究も封印されてきた田中智学の思想を、智学の三男・里見岸雄が創設した里見日本文化学研究所の金子宗德所長に聞いた。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

日蓮と日本 言わぬ日なし
折伏主義、他宗派批判に回帰

里見日本文化学研究所所長 金子償氏

かねこ・むねのり 京都大学総合人間学部在学中に「国家としての『日本』――その危機と打開への処方箋」で第3回読売論壇新人賞優秀賞を受賞。同大学院人間・環境学研究科博士課程修了退学。現在は里見日本文化学研究所所長で亜細亜大学非常勤講師。共著に『安全保障のビッグバン――第3回読売論壇新人賞入選論文集』(読売新聞社)『「大正」再考――希望と不安の時代』(ミネルヴァ書房)『保守主義とは何か』(ナカニシヤ出版)などがある。

古代から明治に至る国づくりと仏教の関係は?

 大乗仏教には華厳経の唯識論や般若経の空論などさまざまな系統がある。それらを集大成したのが法華経で、「諸経の大王」とも言われる。法華経には、声聞(師に付く修行者)、縁覚(独自の修行者)の小乗教徒でも成仏し得るという「二乗作仏」と、釈迦(しゃか)は久遠の過去世において既に成仏していたとする「久遠実成(くおんじつじょう)の本仏」という二つの柱があり、誰もが救われるとされる。来世で成仏する浄土系とは違い、今ここでの成仏を説くのが特徴で、娑婆世界を仏国土にしようとした。また、罪深く仏になれないとされてきた女性も成仏できると説き、こうした発想が天台本覚(ほんがく)論に結実する。

 仏教を国づくりの思想的な基盤にしようとしたのが聖徳太子で、太子は法華経、勝鬘経(しょうまんぎょう)、維摩経(ゆいまぎょう)の三経の注釈書『三経義疏』を著し、推古天皇に講義した。勝鬘経と維摩経はいずれも在家仏教者が主人公(前者は女性、後者は男性)で、そこからも太子の姿勢が窺える。

 法華経の解釈を大成したのが支那天台宗の開祖・智顗で、一念の心に三千の諸法を具(そな)えることを観ずるという「一念三千」論を唱えた。それを日本に持ち込んだのが最澄で、天台宗の根本教理となる。

 さまざまな煩悩を断滅して精神を清浄にした上で瞑想(めいそう)を行わねば「一念三千」の境地に達せないとする天台宗に対し、日蓮は到達点としての「一念三千」の境地を前以(もっ)て示し、そこに向けて実践を積んでいけばよい、と修行方法の大転換をした。これを「事の一念三千」と言う。実践重視の発想が「立正安国論」に繋(つな)がる。

 日蓮が修行を志した理由の一つが、承久の乱で後鳥羽上皇が執権北条義時に敗れたこと。真言僧の加持祈祷(きとう)が役立たなかったとする日蓮は、現世利益を追求する密教を否定する一方で、宗教的理想を社会的に実現すべく、「立正安国論」を北条時頼に奉呈し権力者に道理を説いた。

明治の近代化の中で日蓮主義が生まれたのは?

 明治維新への思想的影響は神道と儒教に比べ仏教は小さい。日蓮宗では織田信長や豊臣秀吉に弾圧されたのが、そうなった理由だ。

 室町時代に京都の武家や商工業者の間に法華宗が広まった。彼ら町衆は来世での救いを約束する浄土宗より、自らの生業(ねりわい)に意味を与えてくれる日蓮宗を信じるようになった。彼らは天文初(1532)年ごろから法華一揆を結成し、細川清元と組んで一向一揆とも戦い、比叡山をしのぐ宗勢となったが、同5年に両者の間に宗論が起り、山門僧を日蓮宗徒が破したことから争いとなった。比叡山は旧仏教勢力に援助を求め、六角氏とも組んで洛中洛外の法華宗21カ寺を焼き、追放された日蓮宗徒は堺に退去した。これが天文法華の乱(日蓮宗では法難)で、以後同11年に勅許が下るまで、日蓮宗は洛中において禁教状態となった。

 さらに天正7(1579)年「安土宗論」で浄土宗に敗れたとされる日蓮宗は信長から処罰され、以後、他宗への法論を行わないことを誓わされた。四箇格言に基づき他宗を批判してきた日蓮宗には大きな打撃だ。

 文禄4(1595)年、秀吉は方広寺大仏殿千僧供養会のため諸宗派に出仕を命じた。日蓮宗は出仕を受け入れ宗門を守ろうとする受布施派と、法華経を信仰しない者から布施を受けたり、法施を行ったりしないという日蓮の不受不施義を守ろうとする不受不施派に分裂し、後者は弾圧された。この弾圧は徳川幕府にも引き継がれ、教団は次第に折伏を否定し、「立正安国論」も取り上げなくなる。

 明治になり、こうした宗風をひっくり返したのが田中智学だ。祖師の本意は折伏主義で、さらに明治憲法で宗教の自由が公認された以上、自宗を主張し他宗派の問題点を批判する本来の宗風に帰れと主張した。さらに、日蓮の「立正安国」思想を踏まえて社会実践を展開する。

8歳で得度した智学は、宗学に疑問を持ち還俗した。

 祖師に還ることを決意した智学は18歳で還俗して明治13(1880)年に蓮華会を設立。次いで明治17(1884)年に立正安国会、大正3(1914)年に国柱会を設立。いずれも在家の仏教教団で、智学は俗世にあって日蓮の教えを踏まえた社会変革を目指しており、それゆえ「日蓮主義」という言葉を造語したのだろう。近代日本の形成という時代的な要請に応えるべく、伝統的な日蓮仏教を再解釈し、近代仏教思想として体系化したと言ってよい。

智学は明治13年に活発な講演活動を始めた。

 智学の活躍は「烏の啼かぬ日はあっても、田中智学が日蓮と日本を言わぬ日はなし」と評されたほどで、「日蓮主義」と「日本国体」の高揚を唱え、まさに一世を風靡(ふうび)した。内村鑑三の「ふたつのJ(JesusとJapan)」に倣って言えば、智学の思想は「ふたつのN(NichirenとNippon)」だ。両者とも明治日本を象徴する人物である。

 そうした活動に大きな影響を受けたのが高山樗牛、宮沢賢治、石原莞爾といった知識人だ。宮沢賢治が国柱会に入ったのは「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という『銀河鉄道の夜』に記された賢治の思想と、日本を仏国土にせんとする智学の思想とが共振した結果ではないか。


【メモ】古代でも中世、近世、近代でも日本の国づくりは宗教と深く関わっていた。明治ではいわゆる国家神道が否定的に語られるくらいだが、実際の国民、軍人教育などに力を発揮したのは近代主義によって見直された日蓮主義や親鸞主義など。その土台の上に戦後があることを語れる数少ない一人が金子氏である。