「命のビザ」発給の杉原千畝
高い倫理観と大局観に敬意
前駐リトアニア日本大使 重枝 豊英氏に聞く
ナチス・ドイツに追われた多くのユダヤ人にビザを発給し、その命を救った外交官・杉原千畝。千畝と同じリトアニアの国に赴任した外交官である重枝豊英氏に、千畝の行動が生み出した絆、そしてリトアニアと日本とが今後、どういった交流が期待できるか話を聞いた。
(聞き手=石井孝秀)
命への配慮が国の価値底上げ
リトアニア人にも敬愛される
―杉原千畝と同じ国に赴任し、さらに同じ外交官という立場から、彼の行動についてどのように感じるか。
彼に対する私の見解は、外交官として非常に優れた方であったということだ。語学力や情報収集力、そして交渉力にも優れている。
彼が若い頃、満州に赴任していた時の話だが、満州鉄道の一部を安く買収したことがある。その際、ソ連側が反論できない資料や情報をそろえ、当初提示されていた額を値切りに値切り、半分以下にまで値下げさせたと聞いている。大変な国益事業であったことは間違いなく、この一件だけでも千畝の確かな手腕がうかがえる。
リトアニアではユダヤ人を救うために「命のビザ」を発給しているが、高い倫理観、大局観、判断力を持っていなければできることではない。個人的な良心もあっただろうが、ユダヤ人たちを守ること、もしくは見捨てるということが、日本にとってどういう意味を持つかということまで考えたはずだ。つまり国益的に、日本がユダヤ人から恨みを買うリスクを考えた上での判断だったのだろう。
しかもその後、千畝は自身の行為に対して言い訳をしなかった。規則に則(のっと)って考えれば、自身の行為に自信はなかったはずだ。だが、国益には沿っていたし、日本のためによくぞ決断してくれたと思う。
単なる人道支援という普遍的価値だけでなく、命への配慮が国家の価値を底上げし、国益につながることを示してくれたのは大きな偉業だ。
イスラエルなどから杉原千畝は非常に慕われているが、リトアニアでも慕われている?
リトアニアは日本のことを非常に近しく思ってくれているが、その親密なイメージをよりつくってくれたのが千畝だ。
赴任当時、私はこの国の60カ所ほどある自治体を全部回ったのだが、小中学校に行ってみると杉原千畝に関する研究発表をしていた。中には千羽鶴を作って千畝を称(たた)える歌を歌ったり、千畝の出したビザを自分たちで手作りし、大きなパネルにして張り出していた学校もあった。
毎年、国会議員や市長などは千畝のために顕彰行事を開催しており、首都には「スギハラ」の名前を冠した公園もあって、人々の憩いの場所になっている。それほど、リトアニアでの千畝への敬愛の情は深い。これらの様子を見て、一人の日本人が一つの国とここまでの関係を築くことができるのかととても驚いた。
経済的メリットに重きを置くなら、もっと魅力的な大国が日本の隣にある。だが、リトアニアは一貫して、大統領から小学生までアジア最大のパートナーは日本だと言ってくれている。
リトアニアで大使として滞在中、他にどのような取り組みを進めてきたのか。
リトアニア側の日本への関心は高いのだが、日本からの関心をどう引き出すかが課題だった。以前は日本の高い原子力発電技術に関心を持ったリトアニアが、エネルギー政策として日本企業と原子力発電事業を提携するという話が持ち上がったこともある。だが、環境団体の反対や2011年の福島の事故、国内で行われた国民投票での否決などで、私の赴任前に難しくなってしまったという経緯があった。
実は、私はハワイ総領事時代に3度、防衛大卒業生である幹部候補生の練習航海を迎えた経験があった。その縁を生かして防衛大側に相談し、練習航海中にリトアニアまで立ち寄ってもらったことがある。リトアニアを訪れた若い自衛官たちには、一週間ほどかけて国内を巡ってもらい、さらに現地の若い軍人との交流の場も設けた。
私が自衛隊の若者に見てもらいたかったのは、地面に続く国境線だ。そこにはソ連との戦いで戦死した兵士の慰霊碑もある。自衛隊として命懸けの任務に当たるべき彼らにとって、日本と異なる歴史を体験するのは防衛や国際観の意識形成に役立つと思い、じっくりと見てもらった。これは後に、防衛大臣から勲章を頂くほど評価された。
リトアニアという国が、将来的に日本にとってどのような意味を持つと考えるか。
この国は1991年に、ソ連から独立したばかりの国だ。独立後はクリミア占領など、ロシアに対して批判的なスタンスを取り続けている。隣国ということもあり、燃料や穀物をロシアから輸入せざるを得ない立場なのだが、たとえ経済制裁を受けたとしてもロシアへの厳しい態度は崩しておらず、小さい国ながらキラリと光る取り組みを続けている。
また、多民族国家という背景もあり、近隣国家との関係も良好だ。北大西洋条約機構(NATO)にも協力的で発言力も高く、いずれヨーロッパ内で相当な力を持つ国になるだろう。
世界史を見ても分かるが、国のパワーや国同士の関係は刻一刻と変わっている。100年単位で考えると、もし米国に何かあったとき、日本一国で中国やロシアと競えるだろうか。今より人口減少が進んでいれば、日本にそこまでの力はないかもしれない。
リトアニアはロシアによる侵略や支配を経験した。そのため、独立後も隣の大国の動きを敏感に察知できる国だ。そういった点は地政学的に日本と似ており、緊張感と危機感の意識の高さは参考になるだろう。
日本を守るためには、多くの力が必要だ。自由も平和も安全もただではないという認識を持つ必要がある。日本は安定慣れし過ぎてしまった。バイタリティーにあふれたリトアニアのような国と因縁を持つことは、お互いに学べるものがある。
また、リトアニア側も日本の持つ戦略、アジア観、インド太平洋航路、一帯一路への対応などにも関心があるだろう。リトアニアを通じて、日本がヨーロッパとの連携を強めていくという未来も見えてくるかもしれない。