伝統文化ルネサンスを

和美の日本舞踊

日本伝統文化コーディネーター 藍川 裕氏に聞く

 日本には長い歴史の中で育まれた世界に誇る文化がある。歌舞伎の踊りに源流を持つ日本舞踊も、その一つだ。日本伝統文化コーディネーターであり日本舞踊藍川流家元の藍川裕氏に日本舞踊の魅力と伝統芸能の歴史を聞いた。
(聞き手=池永達夫)

歴史に育まれた珠玉
世界を結ぶ平和の懸け橋に

今、日本舞踊というのは元気があるのですか。

藍川裕氏

 あいかわ・ゆう 1942年、東京・木場生まれ。60年、NHK「ひるの民謡」テレビ東京「芸能百花選」など各方面で出演。東京新聞舞踊コンクール指導者賞など多数受賞。2002年、日本伝統文化普及会「藍の会」設立。企業・大使館などで音楽・映像・踊りを交えた歴史トークによる講座を展開。日本舞踊藍川流家元。

 そう問われると、首を傾げざるを得ません。それは観客のほとんどが出演者の身内や友人で占められているからです。

 免許の乱発にも問題があります。古典芸能が大衆文化から離れて、ビジネスになってしまっては本末転倒もいいところです。

 元来、日本舞踊は趣味で習う素人が多く、能や歌舞伎、文楽といった男性主体の専門家集団の伝統芸能とは違い、プロとアマの境界線がはっきりしない複雑な顔を持った女性上位の芸能として発展してきた経緯があります。

 それでも、プロというのは何十年励んでやっとなれるかどうかの世界です。

 今のような状況では、何年たってもプロと呼べるような日本舞踊家は育ちようがないように思います。

 弟子といっても週に一度の練習しかしない週一弟子では、何年練習を重ねても生涯、素人のままで飛躍しようがないからです。

日本舞踊を底上げするには。

 そのためには流派を超えたスターを出すことです。家元制度があると、それぞれの流儀が邪魔をして、違いを飛び越えたスターを出すことができません。

 たまに合同で日本舞踊を踊る機会があっても、一般の方が見る機会はほとんどないのが実情です。

 歌舞伎は26日興行ですが、日本舞踊は一日興行です。その費用は、自己負担です。チケットもプレーガイドでは一般にさばけず、知人や身内に頼る始末で、まだ興行としては成り立っていません。結局、興行ではなく、単なる勉強会みたいなものです。そうではなく、興行にしようとしたのが徳兵衛先生でした。

徳兵衛先生とは。

 私の師匠である花柳(はなやぎ)徳兵衛師です。師は、戦前戦後に活躍した日本舞踊界の異端児であり革命児です。

 師は中国の舞踊学校視察後、吉祥寺に伝統芸能を土台にして、流派にとらわれない真の舞踊家を育てようとしました。それで学科と理論、舞踊の基本を学ぶ舞踊学校をつくったのです。この学校は個人で設立したため借金がかさみ、潰れてしまいましたが、その志を受け継ぎたいと思っています。

 師は「伝統に安住してはならない。むしろ、伝統を磨き、再生創造に努め、継承普及に尽くせ」と常に説いていました。

 師は日本舞踊(歌舞伎舞踊)からの脱却を目指し、日本の民俗芸能を取り入れた、男女の舞踊家でつくる日本の舞踊集団を作り上げようとしておりました。

 私も、師の影響を多分に受け、日本伝統文化普及会「藍の会」を発足させました。この会は、日本の舞踊だけにとどまらず、いろいろな日本の芸能と文化を紹介する舞台をつくろうというものです。

 日本には長い歴史の中で育まれた世界に誇る素晴らしい文化があります。その文化は江戸時代、庶民の生活の中に溶け込んでいました。しかし、明治初期の欧化政策によって日本の伝統文化は庶民から遠ざかってしまい、これを再度、庶民文化のレベルまで引き戻す伝統文化ルネッサンスを起こしたいのです。

 師の薫陶を受けた弟子として、私も何かの役に立つ運動をしたいと思ってきました。芸術文化こそは、世界を結ぶ平和の懸け橋になるものと確信しています。

ダンスと舞踊の違いは。

 西洋のダンスは、基本的に飛び上がるのが特徴的です。やはりキリスト教の影響が強く、ゴシック建築がそうであるように天に近づきたいという衝動があります。

 その点、農耕社会だった日本の舞踊は、重心が低く地に根差したものです。その意味では、それこそ「天と地」ほどの違いがダンスと舞踊にはあります。

江戸時代に歌舞伎がはやったのは。

 最初は歌舞でした。出雲のお国が、歌と踊りの歌舞を京の四条河原でやったのです。お国は出雲のお巫女(みこ)さんだったとされています。

 ただ、四条河原というのは打ち首をする場所で、馬や牛の皮を剥ぎ取る作業に従事する非人の場所です。歌舞の人たちも非人扱いされていました。

 その歌舞伎を明治政府が認めるようになって、初めて文化になったのです。それまでは「河原乞食」扱いです。

 日本舞踊は歌舞伎舞踊とも言われるように、歌舞伎の中の踊りの部分でもあるので、とても演劇性の高い踊りです。

 その中で活躍するのが扇子です。扇子1本で四季を表現し、タバコを吸ったり、火鉢に当たったり、傘や舟、風雨など、あらゆるものを表現するのです。

そもそも日本舞踊の世界に入ったのは、どういう経緯があったのですか。

 生まれは戦争の最中で、昭和17年でした。母子家庭だったから、小さい時から私の肩に生活がのしかかってきて、有為転変の人生でした。

 深川にあった家が焼けて、やっと引っ越した新宿でも数日後、米軍の爆撃を受けました。2度、焼き出された格好です。

 それで、あちこち転々とした時、近所で習ったのが日本舞踊でした。

 母は今でいうステージママでした。当時、美空ひばりブームでしたから、多くの母親がそうなっていましたが、母親は本気でした。

 私は小さい時から、進駐軍の中とかお祭りで踊ったりして、頂いたご祝儀が生活の糧となっていました。

 あの頃は、親に働き口がなく、男の子は靴磨き、女の子は花売りをして飢えをしのいだものです。ドラム缶に寝ている子供たちも、いっぱいいました。

 そうした厳しい環境でしたから、母も必死だったと思います。それで、強引に日本舞踊に引っ張られた格好ですが、そのおかげで舞踊が身に付いたと感謝しています。やはり、お遊びでは芸事は身に付くことはないと思います。