忠義の心全うした松平容保
損得勘定だけではない生き方
今年のNHK大河ドラマは、会津を舞台にした「八重の桜」であった。その中で登場したのが、会津松平家9代藩主松平容保だ。容保は日本史上、損得勘定だけではない生き方を実践した人物の1人であろう。
京都守護職に就任
桜田門外の変以降、徳川幕府の権威は失墜し、朝廷のある京都ではテロの嵐が吹き荒れ治安は著しく悪化。
幕府は容保を新設の京都守護職、将軍後見職に水戸徳川家出身で一橋家を相続していた一橋慶喜、政事総裁職に前越前藩主の松平慶永(春嶽)を指名する。慶喜と慶永は直ちに就任したが、容保は大勢の藩兵の京都駐留に掛かる莫大(ばくだい)な費用もさることながら、尊王攘夷派の矢面に立つことは決して会津藩にとって得策ではないと考え、就任を固辞。
しかし最後は度重なる幕府の要請に、辞退できる雰囲気ではなく、容保は追い詰められ就任を覚悟。家臣らも容保の苦衷に感泣し、「主君がここまで決意したのであれば、もう義のあるところに付くしかなく、行く末のことをとやかく論ずべきではない。君臣ともに京の地を死に場所にしよう」と決意する。
実は、会津藩には京都守護職を拒みきれない理由として、藩祖保科正之が定めた「土津公家訓」というのがあった。土津公とは藩祖正之のことを指す。この家訓はまさに会津藩の憲法というべきものであり、第1条には次のような文章が掲げられていた。
一、大君の義、一心に大切に忠勤を存ずべし。列国の例を以って自ら処すべからず。もし二心を懐かばすなわち我が子孫に非ず。面々決して従うべからず
「大君」というのは将軍のことで、将軍に対して忠義の心を持ち、忠勤は他藩と同様のものでは不十分である。もし将軍に対して二心を懐くような藩主が出たとしたら、それは私の子孫ではないので、家臣たちはその藩主に決して従ってはならない。
藩の憲法ともいえる家訓の第1条が藩の継続や繁栄を説かず、ひたすら将軍への忠誠を説いたところに会津藩の特殊性があった。
藩祖保科正之は徳川秀忠の庶子だが、秀忠の生前は認知されず、まだ幼少だった正之は信州高遠の城主だった保科家へ養子に出される。秀忠の死後、兄の家光から兄弟の認知を受け会津24万石を与えられた。
家光は臨終を迎えるにあたり、正之を枕元に呼び、まだ幼少だった息子家綱の補佐を頼んだ。正之はその遺命に応えるため、全力で家綱を補佐した。
正之にとって、自分は兄である家光の引き立てがあって、世に出ることができたのであり、徳川本家あっての会津藩であるという意識が相当強かったに違いない。その思いが家訓につながったと想像できる。
容保をはじめ会津藩士達にとって未曾有の幕府の危機に際し、京都守護職就任を拒むことは家訓に背くことであり、家訓を犯すことはできなかったのだろう。その点からも、容保の京都守護職就任は運命的なものであった。そして「土津公家訓」は、会津藩の行く末にマイナスの影響を及ぼすことにも繋(つな)がるのである。
日本人が忘れた何か
後に会津藩は、長州尊皇攘夷派を弾圧したことによって恨みを買い、佐幕派(「佐幕」とは「幕府を佐ける」という意味)の中心として、薩長を中心とする新政府軍と戦い、白虎隊の集団自決など数々の悲劇を残しながら会津を追われるという最悪の結末を迎えた。
容保にとって、藩祖保科正之の制定した家訓の存在は大きかったかもしれないが、会津藩の将来を考えれば、幕府の要請に対して最後まで固辞する方が得策だったことは、歴史が証明している。しかし、容保は固辞する道を選ばず、京都守護職に就任し、幕府に対して最後まで忠義を尽くした。
最近は忠義という言葉はあまり使われなくなったが、容保の生き方は、現代の日本人が忘れている何かを教えてくれているような気がしてならない。