道徳教科化の前にすべきこと
複眼的、多層的なアプローチを
総括の視点見えず
作家の遠藤周作がかつてどこかの大学入試で自身の作品が問題文として出されたというので、それを解いてみたという話を聞いたことがある。作者本人が解答したのに不合格だったと苦笑していた。
かように、それぞれの人間の心の襞(ひだ)には、微妙な違いを帯びた感性や価値意識が息づいているのであり、これは尊いことではないだろうか。この心の襞に触れるのが道徳教育である。
このほど、文部科学省の有識者会議が「道徳の時間」を教科に格上げし、検定教科書を使うべきだとする報告案をまとめた。このナイーブな課題を扱うことの丁寧さと、その前にするべきことがあるのではないかという観点から私見を述べたい。
有識者会議や教育再生実行会議が指摘しているように、週に1時間の「道徳の時間」が計画通りに行われていない傾向や、一部では形骸化した実態があることは大きな問題である。それは、教師の意欲や意識の低さとも結びついており、改善が急務なのは論を待たない。
また、子ども達の育ちの実情を見ても、自己肯定感や規範意識の低さへの対処も喫緊の課題である。加えて、教育再生実行会議はいじめ問題の解決策として道徳の教科化を提言しており、社会の各界各層から道徳教育の充実の声が上がっている。
ところで、本当にこれらの指摘と提言を真っ当に受け止めて、何はさて置いても道徳の教科化を実施すれば、魔法の杖のように子どもの実情はよくなっていくであろうか。もっと沈着冷静で客観的な検討が必要ではないか。二点からまとめる。
一つ目は、新しいことを行うに際して、これまでの総括を行った結果として実施しているかということである。現下の課題となっている道徳の教科化であるが、道徳の時間が導入された昭和33年改訂の学習指導要領には次のような指摘がある。「学校における道徳教育は、本来、学校の教育活動全体を通じて行うことを基本とする。したがって、道徳の時間はもちろん、各教科、特別教育活動および学校行事等学校教育のあらゆる機会に、道徳性を高める指導が行われなければならない。」そうであれば、単に週1回を行っている、いないという皮相的な捉え方で判断するのではなく、授業を通じて、学校行事を通じて、1年間の学級経営という視点で、つまり教育活動全体を通じての道徳教育がどうだったのかもきちんと総括すべきである。しかし、これまでの議論ではこのような視点は見えない。この間の教育制度を振り返っても、「総合的な学習」や「ゆとりの時間」が華やかに打ち上げられたが、それ自体に関する明確な総括もないうちに主席から立ち去る姿を我々は目にしている。私見を言えば、様々な教育場面を通じて道徳心の涵養(かんよう)を願い、誠実に子どもと向き合っている教師がたくさんいるのも事実である。総括をしっかりと行った上で次のステージに進むべきである。
二つ目は、因果関係を吟味するということである。多くの有識者の意見では、道徳教育充実の背景として、子どものいじめや少年犯罪の増加を指摘する声が多い。あるいは、愛国心の欠如や自己肯定感の低さを挙げて道徳の復興を指摘する意見も多い。考えるに、いじめの増加は道徳教育の不足に起因しているのだろうか。広く蔓延(まんえん)している自己肯定感の低さは道徳の問題だろうか。もちろん、道徳授業を通じて思いやりの心が育てば、教育的な改善に効果があるだろう。
しかし、もっと複眼的に多層的に実態を捉えるべきではないだろうか。案外、いじめ問題の背景に家庭の環境や友人関係の力学などの生徒指導的背景が大きいかもしれない。あるいは、授業中に教師の発した不用意な言葉で傷つき、自己否定的になるという教科指導的背景が大きいかもしれない。このように、両者の因果関係を単純化せず、複眼的に多層的に捉えるべきではないだろうか。なぜなら、人間の内面は二重にも三重にもなっているからである。
今なお画一的な傾き
終わりに、昭和22年に告示された最初の学習指導要領の言葉を紹介したい。文面には戦前教育の深い反省が書き連ねられている。「このような表れのうちで一番大切だと思われることは、これまでとかく上の方から決めて与えられたことを、どこまでもその通りに実行するといった画一的な傾きがあったことである。」
我々はこの性向をいまだに持ち続けていないだろうか。学校教育の最前線で日夜取り組んでいる教師たちの声を生かし、子ども達の最善を願ってという観点から道徳教育の改善の議論を進めてもらいたいものである。