シリア攻撃の大義

 4月14日の米英仏によるシリア攻撃に対し、国際法の専門家から異議も出ている。国連安保理等による容認決議もなく、米英仏に対する急迫不正の攻撃でもない。にもかかわらず、あの攻撃が行われたことは、いかに今のシリア情勢が人道的に非常な問題だとしても、前記のような条件を満たしていないのだから、国連憲章第2条ないし今までに積み重ねられた国際法秩序を破壊するものなのではないか?―というものである。

 では国連憲章第2条ないし今までに積み重ねられた国際法秩序が正しいと言えるのか? その根拠は1648年に成立したウエストファリア条約―つまり理性に基づいて運営される近代国家が絶対であり、その近代国家同士の約束としての国際法なるものには強い拘束力があるという前提があると思う。

 では、その近代国家なるものが置かれた現状は、どのようなものか? 所謂(いわゆる)グローバル化と、その原因でもあり結果でもある人工知能やインターネットのようなハイテクの発展のために、融解しつつあるというのが、その現状ではないか?

 所謂リベラル思想とは理性の力で人類が理想社会を自ら築けるというものである。ハイテクもグローバル化も国際法も、そのような発想に基づいている。

 この発想は正しかったのだろうか? 理性が生み出した人工知能によるグローバルな国際金融は、その正当性に対する疑いをリーマン危機で露呈したのではないか?

 そこでリーマン危機を契機として、リベラル思想=理性中心の思想の誤りに気付き、その反対方向にあえて向かったのが、トランプ氏や彼周辺のマーサー、バノンといった人々ではなかったか?

 彼らのリーマン危機以降の思想とは、グローバルに何かを動かし、それをハイテクで輔弼(ほひつ)する行き方に対し、ピューリタン的な労働こそが神への祈りであるというものと考えられるだろう。そのような価値観を取り戻すために彼らは戦っている。

 つまり彼らの取り戻そうとしている社会とは、グローバル化によってウエストファリア的近代国家が瓦解し、それが成立する以前の、民族や宗教が中心の世界である。これの行き方は上記のような理由から間違っていないと私は思う。

 ということは、この新しい世界では、近代国家の約束事としての国際法も国連憲章も、全く無意味なのである。つまりホッブスの原点に戻って「万人が万人の敵である」状況を是認するしかない。

 そうなれば「強い者が正しい」という考え方に回帰せざるを得ない。この観点から見ると、シリアへの米英仏の攻撃は、化学兵器が何れ自国に使われる危険を排除するための、当然の行動だったことになる。

 今まで述べてきたことからして、この考え方が間違っているとは思えない。

 繰り返す。人類の社会はグローバル化やハイテク化の結果として、近代国家が融解し、その相互の約束としての国際法その他の秩序も崩壊したのである。そのような世界では民族と宗教が全てである。

 その世界で日本民族が生き残るには、憲法9条の破棄と軍事予算を今の数倍にする以外ないように思う。それが実現されることを祈ってやまない。