金欲主義的な葬儀代 ヒューマンな人の心を

カーネギーの本を購入

 2年前の正月、群馬交響楽団恒例の音楽会に出掛けた。ラベルのボレロや、椿姫のソプラノなどで、ポピュラーな音楽の数々を高崎市の群馬音楽センターで2300人もの音楽愛好家の人々と共に楽しんだ。ちなみにチケットは次男のプレゼントだった。

長男が東京の音大から群馬交響楽団にただ一人合格し、ファゴット一番(トップ)奏者として活動してから早くも30余年になろうとしている。同楽団は、戦時中の都会の音楽家たちが疎開先の群馬で音楽活動を始め、それがオーケストラになり、映画「ここに泉あり」(1955年)にもなった。故郷の旭川でも上映され、音楽好きの今は亡き母と2人で見に出掛けた懐かしのオーケストラでもあった。親として長男に立派な演奏家になってほしいと願ったものである。

音楽会の後、食事会など深夜まで続く歓談の時を過ごし、翌朝、寝ている息子らをおいて、そっと私一人外出し、高崎駅の茶店で時間待ちしてから、いつもの書店に行き2冊の本を購入した。

1冊はD・カーネギーの「人を動かす」(創元社)で、もう一つは「NASAより宇宙に近い町工場」という植松努氏の本だった。

D・カーネギーの著書は、昔「道は開ける」を購入したのに続く2冊目だが、植松氏の著書は雑誌「ビッグイシュー日本版」に載っていたのを読み、その存在は知っていた。炭坑の町として栄えた北海道赤平市も時代には勝てず、人口減が進み衰退していたが、やがて「植松電機」が宇宙開発を手掛けて世界にも知られる赤平市になった。日本の地方も新たな発展が期待できそうだ。

また、D・カーネギーが語るように、人を動かし事業や仕事、ビジネスに参加させ、政治、経済に活路を得て成功させる人間の心情の微妙さ、素晴らしさは哲学に通じるものがあり、またそれは、かつてのイエス・キリストや仏陀(ぶつだ)が説いた人間が生きる希望ともなる宗教心や豊かなヒューマニズムともなるのである。

日本の戦後の教育がモラルを教えなくなった今、現代の若者や老人たちは淋(さび)しく孤独な暮らしに追い込まれ、そこにさまざまな問題が人々を悩ませ、苦しませているようである。

友人の夫が風邪から肺炎となり入院したが、さらに脳梗塞を併発し、毎日見舞いに行く彼女に言葉も出ず、目だけで嬉(うれ)しさを表しながら1年後に亡くなった。悲しみのうちに人の勧めで仏教葬をしたが、「700万円も葬儀代を取られ、その上、戒名代が100万円。息子が払ってくれたけど…」と嘆いていた彼女だった。

いまだに金欲主義の仏教界に驚かされた。もともと親代々キリスト教徒の彼女がなぜ、と後日談を聞く私だったが、人の勧めを断り切れず悲しみに重なる大きな経済負担は、一層、彼女を苦しめたようだ。

物欲でなく心を豊かに

 D・カーネギーの「人を動かす」という知恵があったら、もう少し気楽で愉(たの)しい生き方ができた頭脳明晰(めいせき)な彼女だったのである。

今苦しかった日々を振り返り、賢い彼女はこれからの生き方を変えるだろう。気付くのが遅くても良い。わが身と息子や娘、またその孫たちがあまり苦しまずに、笑顔で暮らせるように、知恵ある生き方は気付いた時から始めればよい。

真実の知恵は意外なところにある。

物欲にうごめく人たちの世界にはまるか、D・カーネギーが説く幼児の無心の笑顔や、真の人の心を思う優しさの言葉に気付くヒューマンな人の心に戻るかすれば、彼女も最後の人生を心豊かに、愛に溢(あふ)れた子や孫と共に過ごすことができるだろうと、期待している。