田中角栄ブームについて 忍苦と努力を見落とすな
人の関心を集める半生
月刊誌「文芸春秋」8月臨時増刊号を読んで考えさせられた。同誌は冒頭で、「時ならぬ『角栄ブーム』が到来している。…いま彼をもてはやす書物は負の側面をあまりに見落としていないでしょうか」と続いている。言葉を返すなら、「文芸春秋は田中の負の面をとりあげ、強調しすぎてはいないか」と言いたい。
私は高校を卒業したころから、「コンピューター付きブルドーザー」などと表現された田中角栄という人に関心を寄せた。その人に関する書物を十数冊買い込んで読んだ。石原慎太郎氏は「田中角栄」氏を「天才」と言ったが、私は「悟りを開いた人」または明治維新の偉人「西郷隆盛」のように苦難に苦難を乗り越え忍耐し克己した人と思うがどうだろうか。
大正7(1918)年5月4日、雪国新潟県刈羽郡二田村に生まれ、言語不自由(どもり)でありながら、学業優秀で高等小学校を卒業し、15歳で向学心に燃えて上京したが、時には門前払いを食らい、転々と職業も変え、18歳にしてアルバイトをしながら得た製図の技能を生かして会社を設立し社長になった。たった1人の社員とはいえ、一国一城の主となったのだ。さらに昭和18年には個人企業「田中土建工業株式会社」に組織替えした。
第2次世界大戦の敗戦は朝鮮で迎え、命からがら帰国した。再び上京して旧友・先達たちに会い元の会社を立て直した。幸い元の会社はほとんど戦災を免れ無事であったので復旧は順調に進んだ。戦後のどさくさの中であり、建設業は年齢不相応な高収入を得たと言われる。
27歳にして国政に志し、「若き血の叫び」を掲げて戦ったが頼りにしていた人の裏切りもあり落選した。昭和22年4月25日第2回衆議院議員選挙で初当選した。29歳であった。
翌年吉田内閣では30歳で法務政務次官を務め、39歳で第1次岸内閣では郵政大臣を務めた。そのほかに33本の議員立法を成立させた。
議員立法と言っても戦後の日本が発展していく段階で人々の生活の最も基本の務めを果たしているのだ。たとえば、住宅金融公庫法・公営住宅法等である。どれだけ多くの国民が家を持つことができるようになったか。また住宅団地の出現によってどれだけ多くの新婚さんが助かったか。
さらに道路法・道路整備費の財源に関する臨時措置法等で全国の津々浦々まで道路を張り巡らし舗装をし、現在の国民の交通需要に応えている。これらの議員立法をするにあたってその提案者は数人または十数人いたようであるが、衆議院での答弁は田中角栄がほとんど1人でしたと伝えられている。そのための記憶力と勉学は常人が真似(まね)ることのできないほどであったと言われている。
それから自民党幹事長として長年にわたって、「選挙の神様」として敏腕を振るい、遂(つい)に一国の最高指導者、総理大臣を務めた。
皮相的な立花氏の評価
かかる人物を、立花隆氏は「田中角栄研究」という論文の中で、田中角栄氏には四つの側面があるとして、①政治家田中角栄②事業家田中角栄③資産家田中角栄④虚業家田中角栄、と分類している。
1番目から3番目までは誰もが望むことであり別に悪いことではない。これにしてもこの分類法は、形の上からの分類で皮相的と言わなければならない。もっと深くその人間性、意欲の有無、努力の有無、忍苦・先見の明、人の面倒見等の精神面を加味しなければ、人物評にはならないと言えよう。
ここまで来ると田中の10代・20代・30代・40代の真剣な生きざまは、あの明治維新の英雄、西郷隆盛の若い時代の生きざまに重なって見える。第2次世界大戦敗戦後の日本の現実・暗黒・混乱の時代にあって、かく逞(たくま)しく、堂々と、我れここにありと力強く生き抜いたのだと思えるのだ。