大切にしたい日本語 目立つ誤用や敬語の混乱

首相発言やテレビにも

 麻生太郎副首相兼財務相がかつて首相だった当時のこと、国会で「未曾有(みぞう)」を「みぞゆう」と発言して失笑を買う出来事があった。だが、この程度の誤りは、実は日常茶飯事である。例えば、その後に首相になった菅直人氏は、しばしば「従来から……」との表現を使っていた。これには国会議員たち誰一人として笑うことがなかったが、「従来から」も、正当な日本語ではない。改めて念を押すまでもなく、「従来」の「来」は「先般来」「先日来」などの「来」と同じく「…から」の意味である。したがって、「従来から」は「以前からから」と言っているに等しい。首相の発言、それも国会の場での発言としては、「みぞゆう」より低級だろう。

 もっとも、この種の誤りは、著名作家の作品にも、しばしば登場する。例えば吉川英治の「太閤記」や「宮本武蔵」には、ときに「古来から」との用語が出てくる。これも、忠実に読むと「古くからから」になる。

 また、主としてラジオやテレビの放送では、株価や物価の「値上がり」「値下がり」との表現がすでに定着してしまっているといっていいだろう。昨今の小中学校の国語教育ではどうなっているのか、筆者には知るよしもないが、厳格な先生だったら、この種の用法には一喝あるところではないだろうか。

 ラジオやテレビには、おかしな日本語が他にも少なからず登場する。これも例示にとどめるが、例えば「紐解く・繙く」=いずれも「ひもとく」で、書を読んで調べるの意=だが、これを「科学をひもとく」「秘密をひもとく」などと使う。また、「お裾分け」は、よそから頂いた物の一部を他の第三者に分譲する場合のいわば“へりくだった”用語だが、これを自家生産物や自己購入品の一部を他に分譲する場合にも使うようになっている。

 「元気」や「勇気」は「物」ではない。それを「元気を与える」「勇気をもらった」などと使うのも、近頃の流行である。関連して、自分より社会的地位の高い人々に対して「元気」や「勇気」を「与える」などと使うのは、敬語の混乱ではないか。

 「素晴らしい」「素敵」「見事」などの表現がほとんどなくなって、「すごい」「すごく」などが「感嘆」の意の表現に使われるのも、最近の目立った傾向の一つ。「凄い」には、場合によってだが「すさまじい」「恐ろしい」の意味にも使う場合もあるが、最近は知識人層も何かにつけて「凄い」と使いがちになっている。

「ら抜き」疑問視どこに

 言語表現は時代の推移につれて変化する。今どき「…ござる」「…ござりまする」などと使う人は、まずあるまい。ひところ、いわゆる「ら抜き言葉」を多くの言語学者が問題にした。昨今、「食べることができる」の意味の「食べられる」が「食べれる」に変わってきていることを疑問視する言語学者はいるかどうか。

 代わって気がかりになることが、もう一つ。これもラジオやテレビでよく耳にすることだが、「アノー」「エート」など無意味な語を乱発する出演者が少なくない。

 何かと国際化の時代、片仮名語の使用増は当然として、日本語をも、もっと大切にしたいものである。