逞しき脱サラ画家 会社滅ぶとも己滅びず
寺田みのる氏の挑戦
毎日新聞のPR誌「毎日夫人」に、毎月水彩画を連載している画家がいる。
『あなたと歩きたい街』と題した、ペンと水彩で描かれたスケッチ画で、毎号、訪れた国内外の街の風景が描かれている。
ある時はローマ・ギャラリー街、ある時は横浜関内の馬車道通り―、またある時は京都府・伊根の舟屋の風景といった具合で、どことなく旅情を感じさせるロマンチックな水彩スケッチ画である。そしてそこには短い文章が付されている。
「…海外も、オシャレな大都会もいいですが、たまには、日本海側の小さな漁港へ、この夏に貴女と出かけたいですね」 こんなロマンチックな文も添えられている。
作者は長く三洋電機に籍を置いていたサラリーマン画家で、いわば二足のワラジを履きながらその地位を得てきたひとである。
寺田みのるが三洋電機に入社したのは1962年。洗濯機を作る滋賀工場へ中学卒で、入社した。入社後は大津市の定時制高校へ通って卒業。さらに大学まで進むが、2年で中退となる。
スタートは洗濯機の組み立て工で、程なくして労働組合に引き抜かれ、組合報の編集に。父親の影響を受け小さい頃から絵を描くのが好きで、その画才が組合の目に留まる。ある時、工場で安全運動の提案募集があり、応募した彼は標語、ポスター部門とも一等賞。一躍工場内の注目株となり、販売キャンペーンが実施された時は、販売員にスカウト。その販売でも画才を生かしてPOPなどの販売ツールを制作。1日で39台というダントツ販売実績を上げた。この業績が認められ本社の商品企画部へ栄転。
出世願望はなかったというが、係長32歳、課長36歳、部長45歳とスピード出世を遂げた。
といって彼は、好きな絵を一日として忘れたことはなく、働きながら絵を描き続けた。28歳の時は地元大津市のスーパーで、地元の風景を描いた「大津二八景展」なる初の個展を開いた。全く売れなかったそうだが、その頃からマンガやイラスト、TVのタイトル画、本の装丁や挿絵、地酒のラベル、漬物や饅頭の題字といった注文が入るようになり、一生懸命彼はそれらの注文に応えていった。
それらの仕事をすれば、名前があちこちに出るようになり、社内でも目立つようになる。そこで寺田は陰口を言わせないために、誰よりも早く出勤し、人の2倍働くことを心がけたという。その一つの例が日本初のコインランドリーの設置、洗濯機の上に乾燥機を付けたホームランドリー、といったアイデア商品に表れている。
1999年11月、会社は早期退職制度を打ち出した。当時、彼は勤続36年、まもなく52歳を迎える年齢になっていた。定年まで8年という年月を残しているが、残りの人生を絵筆一本に賭けてみようと、早期退職制度に応募する気持ちを固める。
二足のワラジから転身
ただ絵筆一本で生きていけるか否か、誰にもわからない。二足のワラジで実績があるとはいえ、絵描きで生活ができるかどうかはわからない。絵描きには“貧乏画家”との形容詞が付きまとう。
不安な気持ちを抑えながら寺田は、早期退職制度に応募し、新しい人生に旅立った。今は地元大阪、京都、滋賀そして東京と4カ所の絵画教室をもち、その傍ら旅行会社と組んで年に4回から6回の海外スケッチ旅行を行ってもいる。
出身企業である三洋電機は、パナソニックに吸収され事実上“滅びの企業”となった。が、二足のワラジを履いた絵描き社員は逞(たくま)しく華麗に生きている。(敬称略)