原型史観で見る韓日文化の比較
和解に必要な一期一会の精神
漢陽大学名誉教授 金 容雲氏
駐札幌大韓民国総領事館が開館して今年で50周年を迎える。同館開設の目的は在日韓国人や北海道を訪れる韓国人の保護の他に、政治や経済など幅広い分野での北海道と韓国の交流を促進すること。同総領事館では50周年を記念して5月31日に漢陽大学名誉教授の金容雲氏を招き、「原型史観で見る韓日文化の比較」をテーマに特別講演を行った。その講演要旨をまとめてみた。
(札幌支局・湯朝肇)
両国文化の「原型」に目を/かつて共通の言語を持っていた
日本人か韓国人かは、3人くらい集まっていると話している言葉などから分かりますが、1人でいると、どちらの国の人か判断がつかないほど両国民はよく似ています。また、日本語と韓国語をみると発音は異なるものの、文法が全く同じ。なかには発音も意味も同じという単語が多々あります。距離的に最も近い韓国と日本。しかし、ものの考え方、生活習慣にはかなり異なったところがあります。それでは韓日両国の「違い」の本質はどこからくるのでしょうか。どこまで両国は理解し合えるのかについて話をしてみたいと思います。

キム・ヨンウン 韓国を代表する数学者で文化比較論の大御所。現在は漢陽大学名誉教授。1999年から10年間は日韓両政府の合意により発足した日韓文化交流会議のメンバーとして特に2004年から07年まで韓国側座長(日本側座長は平山郁夫氏)を務め、07年から09年まで「日韓交流おまつり」の実行委員長として日韓和解と交流親善に貢献し、今なお全国各地での講演や執筆で多忙な日々をおくっている。
日本の歴史をみると弥生時代、韓半島からの多くの渡来人によって農業革命がもたらされたことはよく知られていることです。私が京都の国際日本文化研究センターで仕事をしていたとき、同僚の日本人学者に弥生時代の渡来人と先着人(縄文人)の人口比を聞いたことがあります。彼はおよそ94対6と話しておりました。私は、これは単純な人口比ではなく勢力比であると考えています。米国の歴史を見ても分かるように、高度に発達した文明をもって侵略した勢力は土着の文化を圧倒していきます。トマトやポテトといったような土着の言葉が若干残るものの、ほとんどは侵略した勢力の文化で覆われてしまうものです。
ところで民族とは共通の言語によって結ばれる巨大な生命体といえます。民族史の初期段階に形成された民族の性格を「原型」と定めるとすれば、そのような「原型」は民族共同体の未来と運命を決定していきます。言語や思惟をはじめ、宗教観、歴史観、趣味生活に至る全ての文化的要素は各民族の深層に位置する「原型」を通過しながら、それぞれ違う形で発現されていきます。
私はかつて韓国と日本は同じ共通の言語を持っていたと考えています。日本の地名に奈良という所があります。かつて奈良時代の都・平城京があった場所です。一方、韓国語でナラと言えば、国を意味します。
日本の地名を表す言葉に郡や村、里がありますね。会津の郡山(コオリヤマ)というところがありますが、韓国でも郡を「コフル」、村を「ムラ」、里を「セト」と呼んだ時期がありました。かつて新羅の都に「クンムラ」と呼ばれたところがありました。「クン」は漢字で「健」と書き、大きいという意味です。「クンムラ」は大きなムラということになります。
また、韓国にある慶州のかつての名称は徐羅伐(ソラボル)といいました。また、現在の扶餘(プヨ)に置かれた百済の都は所夫里(ソブリ)といいました。一方、『日本書紀』によれば、天皇家の始祖は宮崎県高千穂の添(ソホリ)に降りてきたと記しています。
また、有力な邪馬台国の候補地である吉野ケ里遺跡の後ろには、背振(セブリ)山地が続いています。「ソラボル」「ソブリ」「ソホリ」「セブリ」は全てソウル(都)を意味していたのでしょう。
さて、韓国人が日本に来て驚くことが一つあります。それは日本には神社が非常に多いということです。さらに、祭りが多い。韓国では神社はありません。祭りはありますが、その仕方や方法が違います。祭りは古い時代、神を迎える儀式だったのでしょう。
神を迎え神と交わる「まじり」が祭りになったと思いますが、かつて在日韓国人の文学者の金達寿氏が祭りのときの掛け声である「ワッショイ」、「ワッショイ」は韓国語の「ワッソ(神が来た)」と同源だと言っていました。とにかく、日本の祭りは神社が中心で村ごと、地域ごとに行っていますが、韓国では家門を中心に行います。
神社に関連していえば、日本は神社が無くてはならない国だと思うのです。つい先日、熊本で大きな地震が起こり、今でも多くの方が苦労をされています。日本ではおよそ20年ごとに大きな地震がやってくるようです。阪神大震災、東日本大震災、そして今回の熊本地震。最近は周期が縮まったようにも思いますが、地震はいつあってもおかしくないほど日本には天災が多い。そうした天災に対抗する組織が必要になってきますが、その中心になるのが神社でした。日本では地域住民が共同して対応するのは当然、天災が起こるたびに地域が結束して乗り越えてきました。NHKは今も事あるごとに「もういちど日本 がんばれニッポン」と呼びかけていますね。
ところで、こうした天災は恨みようがないのです。天からとんでもない災いが降ってくる。しかし、そんなことにいつまでも恨んではいられないので、悲しみを早く忘れて地域の人が団結して新しい生活を作らないといけないという発想になります。従って、日本の社会は、常にいつ訪れるかもしれない天災への「緊張」と「共同」という概念が、社会意識の中で作られていきました。
一方、韓国はどうでしょうか。韓国では大地震は頻繁に起こりません。台風も来ません。日本と韓国、同じモンスーン気候の中にありますが、風土的に韓国は非常に住みやすいところです。韓半島の自然は日本に比べれば非常に穏やかなのです。台風や地震といった天災は日本が引き受けてくれるので、大きな天災というものはないのです。もちろん、過去に何度か大地震があったとの記録はありますが、その恐ろしさが民族の無意識に形成されるほどには至ってないのです。
韓国人は「ケンチャナヨ」と言ってすべてを乗り越えるといわれますが、そうした風土によるものでしょう。むしろ韓国では天災よりも人災が主に歴史をつくってきました。地政学的な側面から、苦難の歴史を辿(たど)りました。天災は恨むことはできませんが、人災は恨みをもたらします。韓国人の「恨(ハン)」の基層はそうした歴史の中で形成されてきました。
もう一つ、日本と韓国の文化違いを示す象徴的な言葉として、「公」と「愛」があります。
韓国では公(おおやけ)に該当する固有語がない半面、日本語には生と結びつく愛に該当する固有語(和語)がありません。韓国語のサラン(愛)はサラム(人)、サーム(人生)と語源が同じで、これらが一つとなって「恨と情」の精神世界をつくります。韓国語で公がないというのは興味深いことです。公とは親、親方、頭領などを中心とした一つの派であり、それは日本語では「家」という概念を形成していきます。
公には血のつながりはありませんが、一つの大きな疑似家族を形成し、「和」を重んじていきます。「和」を乱すことは悪と捉え、自らを引いてでも「家」の安寧や存続を優先する。とりたてて言葉に出して言わないという「言あげせず」という言葉がよくそれを表しています。さらに、「公」の精神は「死」の美学さえ育んでいきます。日本人がよく好む『忠臣蔵』などはその最たるものでしょう。
一方、韓国人は決して死を美化しません。韓国で有名な親孝行の物語『枕清伝』の主人公、沈清は海に身を投げた後も生きながらえます。韓半島では歴史上、外部からの侵略を何度も受けました。その頻度は統計でみると3年に1度の割合だといいます。
そういった歴史の中で、韓国人は抵抗精神と時期を待つ精神を培ってきました。結局、外部からの侵入者は長居することはできなかった。すなわち、どうにも行き詰まってしまった時に湧き起こる生への執着、つまり生愛的エネルギー源として「恨」という概念を生み出していったのです。
このように、韓国と日本は共通の言語を持っていましたが、前述したとおり、風土の条件や歴史を通して生活習慣や文化が異なっていきました。現在、日韓関係には領土問題や歴史問題で軋轢(あつれき)がありますが、私は真の日韓理解の道は両者の「原型」を知ることから始まると信じています。歴史が不条理なものであるのは、個人の存在と同様です。実際にどこまで歴史を遡(さかのぼ)れるのか、その基準もあいまいです。日韓外交の最善のあり方は、問題提起されるたびにその本質を見極めることにあります。現実に生きる人々が、一期一会の精神で相手の「原型」に誠と敬いを持って立ち向かうしか道はありません。





