「義烈空挺隊」について正しい歴史認識を
沖縄発のコラム:美ら風(ちゅらかじ)
先日、本土からの来客に読谷村(よみたんそん)を案内する機会があり、残波(ざんぱ)岬付近のきれいな海や世界遺産の座喜味城(ざきみぐすく)だけでなく、米軍が最初に沖縄本島に上陸した地点など沖縄戦にまつわるスポットも案内した。
沖縄戦関連の遺跡としては、「義烈空挺隊玉砕之地」の碑と掩体壕(えんたいごう)があるが、読谷村の再開発計画に伴って場所の移転もあり、分かりやすい案内表示もなく、見つけるのに時間がかかってしまった。
空挺隊とは、航空機で敵中に進入し、パラシュートまたは航空機自体が着陸して敵陣に乗り込む特攻隊のこと。先の大戦で沖縄に結成された義烈空挺隊には、日本・沖縄を守るために全国から136人の若者が集まり、沖縄出身者2人も参加していた。
碑がある場所は沖縄戦で日本軍が北飛行場として使用していた。戦後は米軍が読谷補助飛行場として使い、2006年に全面返還された。碑が建てられたのは1973年。有志が義烈空挺隊の着陸地点を探し出し、木製の碑を建立した。
ところが碑は、読谷中学校の建設に伴い、2010年8月、村が指定した読谷掩体壕前に移転された。読谷村は革新色が強い地域で、説明板も反戦平和、沖縄の被害者史観の影響が強い。
「空の神兵」顕彰会の奥本康大会長は12日、沖縄県護国神社で講演し、「義烈空挺隊について知らない沖縄県民は多い」「県民はもちろん全国民に知ってもらいたいとの思いから動画を作成したところ、大きな反響があった」と述べた。正しい歴史認識のためにも、「将来は立派な顕彰碑を建てたい」と意気込みを語った。
沖縄県護国神社の加地順人(よりと)宮司は、義烈空挺隊について、「日本の平和を思う気持ちで集まり、(一部は)散華された」と述べ、沖縄は捨て石ではなかったと強調した。
(T)