2度目の拉致監禁に遭う
被害者の体験と目撃現場(13)
舞さんが韓国にいる間に、母親は娘に会いに2度も出向き、協会関係のイベントにも参加していたし、父親も来て舞さんの夫に会っていた。
しかも最初の監禁から解放されて以降、拉致監禁をにおわすようなアプローチは何もない。舞さんは、危険な兆候を全く感じなかった。
拉致監禁という忌まわしい言葉は、互いの口から封じてきた。舞さんは、もう監禁はないだろう、すっかり諦めたんだろうと安心していた。
それで、舞さんは、1996年に入って、東京・西東京市の自宅の敷居を気軽にまたいだ。東京にいる間、杉並区にある山崎製パンでアルバイトをし、2月の半ばに韓国に行く予定をしていた。その何日か前、2月8日あたりだった。
夕飯後、家族がコタツを囲んでしばしくつろごうとした時、両親が「おまえの教会のことでちょっと話がしたい」と切り出してきた。
その一言で、瞬時にドキンときた。最初の監禁時と同じだった。
話のとっつきで、そんな言葉はこの5年間、一度も出たことがなかった。<いやぁー、まただ、どうしよう>と頭は混乱したが、即座に、その仕掛けの中心は母親であることを察知した。
舞さんは、韓国を訪ねてきた母親に会った時など、母親が以前にもまして寂しい思いをしていることを感じていたからだ。
それで、母親に向かっていきなり土下座する行動となった。「お母さんごめんなさい」「寂しい思いをさせたんでしょう、寂しかったんならあやまります、ごめんなさい」と言葉を連発した。とっさの行動だった。
ところが母親は、かえって怒りをあらわにして、父親に向かってさらに思わぬ言葉を口走った。「ちょっと、この子、ひっぱたいてやって」。隣にいた父親も、待ち構えていたかのように、いきなり舞さんの髪の毛を掴んで持ち上げた顔を、パシン、パシンと叩いた。
両親の行為は、娘にとってあまりに突拍子で不自然かつ理解しがたいことだった。母親が叩くように父親に言ったり、父親が舞さんの顔を叩いたりしたことは、それまでただの一度もなかった。娘に「寂しかったんでしょう」などと痛いところを突かれ、図星を刺されたことで逆上したのかと思った。
だが、一方で、父親が躊躇なく平手打ちを食らわしたことなど、何か事前に仕組まれた予定の行動だったのではないかとも感じた。舞さんは、両親の背後に実は脱会屋がいて、家族はその言いなりになっていると確信した。
まるで雷が落ちてきたかのように、裏切られたという思いで一気に打ちのめされた。その直後から無気力状態に陥って抵抗することすらできなかった。
当時、両親を信頼しきっていた舞さんにとっては、大変な衝撃だった。韓国に2度も会いに来てくれた両親との関係は良好になったと思っていたが、それは全くの虚構だったのだ。
(「宗教の自由」取材班)