監禁6ヵ月で解放される
被害者の体験と目撃現場(8)
舞さんは家族や牧師、元信者らに口を開くのをかたくなに拒み、本を読んだり、それに飽きると布団に入り虚空を見詰めたりした。何の展望もなく毎日が過ぎていく虚しさを強く感じざるを得なかった。家族からは「そんなに話をするのが嫌なら、言いたいことを紙に書いてくれ」と言われた。最初、その提案を無視していたが「家族とならいいか」と思い直し、筆談に応じるようになった。
ところが、ちょっとした筆談の内容でも、すぐに小岩牧師やナルド会の人たちに筒抜けになっていることが分かった。舞さんはそれを筆談の中で強く非難した。すると、それからは両親も筆談の内容を彼らに報告することはなくなったようだ。
監禁が5カ月を過ぎると、舞さんの焦りは筆談の中にも表れた。「家族ということを理由にまとわりつくな。あなたたちが幸せになろうが、不幸になろうが、私には関係ない」「私はあなたたちを絶対に許さない、弁護士に言ってでも、絶対に許さない」と、激しい調子で書き立てた。
家族はショックを受けたようだった。早速、荻窪栄光教会の小岩牧師に電話を入れ相談したが、万策尽きたようだった。「この際、いったん取りやめたほうがいいのではないか」ということで収めようとした。
家族は舞さんに「もう統一教会のことは何も言わないから、以前のように電話をくれたり、たまには帰ってきて」と、解放を約束した。
翌朝、舞さんは両親と食事をした後、前の晩に用意しておいた荷物を持って弟の運転する車に乗り込んだ。車窓を全開にし、約170日ぶりの自由の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
舞さんが学生時代、父親は教会に対してやや好意的で、母親も黙認状態だった。ある時、池袋のホテルで、教会活動の内容を紹介し、大学教授が関連の講演などを行うバンケットが開かれ、父親が参加した。「結構面白いことを言っているな。またあったら誘ってくれ」というのが父親の感想だった。
その両親が、娘を監禁して棄教を迫ってくるまでに一変したのは、強制棄教・改宗組織のナルド会の集会などで、小岩牧師や元信者らから大きな影響を受けたためだった。
監禁に使われたマンションの一室はナルド会のメンバーが借りているもので、協会員の脱会強要の場に使われていた。
父親は酒が入ると人が変わってしまうが、普段は将棋を指したり本を読んだりして静かに過ごす人だった。それが監禁期間中、そこに常駐し、ずっと監視を続けなければならなかった。その結果、親子関係は断絶を余儀なくされてしまったのである。
拉致監禁はいったん終結したが、深く大きな傷を受けたのは、舞さんだけではない。家族もまた深手を負ったのである。
(「宗教の自由」取材班)