250年の伝統息づく曳山子供歌舞伎
石川県小松市「お旅まつり」の呼び物
石川県小松市で、日本三大子供歌舞伎の一つに数えられる曳山(ひきやま)子供歌舞伎が8日から10日までの3日間、華やかに上演された。演じたのは小学3年生から6年生の女子児童ばかり。2カ月前から厳しい稽古(けいこ)を重ね、歌舞伎独特のせりふ回しや所作を見事にこなすと、集まった観衆から惜しみない拍手が送られた。(日下一彦)
女児のみ演じ、観客を魅了
“町衆”の支えも継承に一役
曳山子供歌舞伎は来年上演250年を迎え、随所に伝統が息づいている。演じるのは旧市街の八つの曳山を持つ町会の女の子たち。毎年二町会ずつ持ち回りで担当し、今年は京町と大文字町が当番町として準備を進めてきた。曳山とは高楼式の移動舞台で、漆金箔に彫刻、天井絵などを施した絢爛(けんらん)豪華な造りになっている。それが各町会の辻や交差点、神社前などに留まり、そこで上演されている。
子供役者は2月に各当番町から選ばれ、3月に配役が決まった。近年は少子化で女子児童の数が減り、旧市街以外から選ばれることもある。今年はそれぞれ5人が決まり、本番に向けて、連日厳しい稽古に励んできた。スケジュール表を見ると、平日は2時間半、土曜、日曜は休日返上で約6時間、みっちり埋まっていた。
演技指導はプロの振付師が教え、所作や目線、間の取り方などをしっかりと伝授。子供歌舞伎は子供役者たちの大人顔負けの演技が観衆を魅了しているが、こうした豊富な稽古があればこそのようだ。
どうして女子児童が演じるようになったか。同事務局によると、もともと男子だけだったが、先の戦時中、「男の子を出すこと相成らぬ」と禁止され、以来、現在まで「曳山役者は女の子」なのだそうだ。選ばれた女児の中には、姉や従姉妹が子供役者を経験しているケースも多く、物心ついた時から歌舞伎を身近に感じる環境があった。
京町の出し物は、盲人とその妻の夫婦愛を描いた世話物の壺坂霊験記(つぼさかれいげんき)。舞台の見所である早着替え、そして迫力ある身ぶりやせりふ回しには盛大な拍手が巻き起こった。また、シャレやユーモアを盛り込んだ軽妙なやりとりに観衆から笑い声が起こった。
座頭の沢市と遊び人の雁九郎の、全く性格の異なる二役を一人で演じた武田結里子さん(小学6年生)は、「練習してきたことをすべて出し切れました」と、満足そうに振り返っていた。
曳山の上には、舞台下の聴衆の反応が直に伝わるだけに、子供たちにとってはやりがいがあるようだ。「歓声が力になり、悔いのない演技ができました」との感想も聞かれた。
一方、大文字町の演目は曽我十二時(そがじゅうにとき) 揚巻助六の場(あげまきすけろくのば)。父を殺害された兄弟が、身分を隠して仇討を果たす舞台だ。主役の揚巻、助六が登場すると、舞台下から「待ってました!」との声が飛び交った。上演回数は3日間で京町が9回、大文字町は8回に及んだ。
そもそも小松の町が発展したのは寛永17(1640)年、加賀藩三代藩主・前田利常が隠居して小松城に入ってからのこと。武士とその家族、商人、職人などが住み、一時は一万人近い城下町を形成し、今に伝わる産業が発展した。
子供歌舞伎は市内の菟橋(うはし)神社と本折(もとおり)日吉神社の春季例大祭「お旅まつり」の最大の呼び物で、曳山芝居の奉納は、明和3(1766)年にさかのぼる。
当時は絹織物が大きな富をもたらし、子供歌舞伎はこうした町人の文化と彼らの財力、心意気、そして職人たちの技によって始まったと言われている。豪華な曳山は、京都の祇園祭や近江長浜の曵山祭への憧憬もあって、十分な経済力と技術力を持つ町衆が作り上げた。あまりの盛り上がりに、町奉行が規制することもしばしばあったとも。その町衆文化が今日も受け継がれている。
舞台の裏方は五人衆、若連中(わかれんじゅう)と呼ばれる大人の世話人たちが一切を取り仕切り、パンフレットの作成や衣装、道具の準備、舞台の設定や上演中のサポートに駆け回っている。近江長浜、武蔵秩父とともに日本三大子供歌舞伎に数えられる小松の曳山子供歌舞伎は、こうした“町衆”の支えもあって、江戸時代から続く伝統を守り伝えている。
北陸新幹線で東京から見物に訪れた年配の女性観光客は「初めて見ましたが、子供たちの仕種がとても新鮮で、感動的な舞台でした」と語った。地元大文字町の住民は「4年に1度の上演ですが、今日までずっと続いているのが町の誇りです」と胸を張っていた。






