コクヨ創業者・黒田善太郎の珠玉の人生訓

「良質廉価」で心を掴む

社員教育も先駆的に実施

 学習ノートや手帳、鉛筆など、文房具の大手メーカー、コクヨの創業者・黒田善太郎(1879ー1966年)は幾多の苦難を超えて実業家として成功。創業50周年を記念してまとめられた『経営の信條』には、経営者として培った珠玉の人生訓が刻まれている。(日下一彦)


300 黒田善太郎は明治12年、富山市で黒田屋7代目善三郎の長男に生まれた。マッチ製造業を家業とし、何不自由ない幼少時代を送ったが、小学校3年の時、父が38歳の若さで突然他界。以来、苦難の人生を歩むことになる。

 小学校卒業後、家業は人手に渡り、母を支えるため奉公に出る。地元の雑貨問屋を皮切りに、20歳の時、故郷を離れて大阪へ。亡き父のつてをたどってマッチ製造業や乾物屋などで働き、23歳で和帳の表紙製造業だった小林表紙店に奉公した。同店は商家が使う大福帳(だいふくちょう)を製造販売していた。

 当時の和帳の表紙は、和紙を何枚も貼り合わせて一定の厚さにし、それを茶碗の表面でこすってツヤ出しする。和紙を貼り合わせる作業は難しく失敗ばかり続いたが、善太郎は地味な仕事に黙々と励んだ。

 やり方を一通りのみ込むと、持ち前の向上心を発揮して、刷毛(はけ)を改良したり、糊(のり)の塗り方に改善を加えるなど工夫、研究を重ねた結果、他の職人の2倍の能率を上げるようになった。

 こうして次第に独立の意志を固め、同38年(1905)10月、大阪市西区に小さな家を借りて、和式帳簿の表紙だけを作る「黒田表紙店」を開業。これが現在のコクヨの創業となった。創業当初はわずかな資金で始めた手作業主体の請負業で、苦難が予想される門出だったが、善太郎には強い信念があった。

 それは「世の中の役に立つことをしていれば、見捨てられるはずがない」というものだった。この信念で事業に打ち込み、「表紙は黒田のものでなければダメだ」と言われるまでの高い評価を受けている。そこには善太郎の「良品廉価」の製品づくりがあった。

 『経営の信條』の中で、善太郎は「真心をもって買い、造り、そして売る」姿勢を説き、「お客様に満足のゆくような品物こそが良品であり、そういう商品をできるだけ安く造らなければならない」「買う身になって改良を重ね、徹底的にむだを省くこと」を実行した。

 当時の和帳業界は、100枚物といえば実際の中身は98枚や96枚しかないのが常識だったが、それを嫌い、正しく中身百枚の和帳を作って「正百枚」と明示した。この「良品廉価」として定着したイメージは、その後、コクヨを支える“ブランド”となった。

 事業では、表紙だけの製造請負から帳簿と表紙の一貫生産に徐々に規模を広げていった。明治から大正となり、西洋化が一般庶民にも浸透すると、帳簿も従来の単式簿記から西洋式の複式簿記に移行。洋式帳簿のニーズが高まり、それを手掛けるようになった。

 大正3年(1914)には社名を「黒田国光堂」に変え、同6年、商標を「国の誉れとなるように」と「国誉(現在のコクヨ)」と定めた。

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和帳の製造風景=「KOKUYO」ホームページより

 前述の『経営の信條』は、創業50周年(昭和29年)を機に経営者として「一番大切なこと」をまとめたもので、その中で、「仕事とは人が生ある限り自らの全力を尽くして全うせねばならぬ天職である」と説き、真心をもって製品を造れば、「人おのずから信用し、人に信用を受ければ天職はおのずから全うしうる」と記している。

 さらに「利潤ばかり追求していく利己主義者からは、逆に利潤は逃げていく。追えば追うほどつらい目にあうのがオチである」「商売の利潤というものは、追求するものではない。利潤は、その事業が社会に貢献することによって、社会から与えられる報酬である。従って製造者はつねに、より多く社会に貢献するという精神で製造しなければならない」「50年の長い間には、自分の仕事のみすぼらしさと圧迫のはなはだしさに非憤の涙を絞ったこともあった。しかしそのつど、これが自分に与えられた天職だと自らに言い聞かせてきた」との教訓がちりばめられている。

 社員教育にも先駆的に力を注ぎ、昭和12年(1937)、「国光塾」を創設して小中学校しか出ていない社員に、一日置きに約2時間授業を受けさせた。科目は国語・書道などの一般教養に加え、女子は茶道、華道、男子は商業簿記、珠算などだ。教育を通じて優秀な人材を発掘したいとの思いからだった。また、善太郎の寄贈によって建てられた富山大学黒田講堂の壁には、「天職を全うせよ」との直筆の銘板が飾られている。