「科学者の楽園」だった旧理研
独立経営で「研究の自由」守る
「日本で唯一の自然科学の総合研究所」である独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長。以下、理研)は今年、STAP細胞論文をめぐって揺れに揺れた。結局、論文は取り下げられ、論文の責任著者の1人が自殺し、検証実験でSTAP細胞は再現できず、論文の主著者である小保方晴子氏が失意のうちに退職するという、最悪の結果に終わった。「なぜ、あのような論文が発表されるに至ったのか」という根本の問題を通して、研究者と研究所のあり方が問われているが、理研のルーツを辿りながらそのヒントを探ってみる。(武田滋樹)
主任研究員制度を初めて導入
理研のルーツは、戦前、日本の基礎的な科学研究をリードし各分野に豊富な人材を輩出した財団法人理化学研究所(以下、旧理研)だ。大正6(1917)年に「産業の発達を図る為、純正科学たる物理学及び科学の研究を為し、また同時にその応用方面の研究をも為す」目的で発足した。明治政府が推進した西欧文明の模倣による発展の限界を知り、基礎的な研究の必要性を痛感した科学者、経済人などの熱心な働き掛けによって設立された。
当初は建物もなかったが、後に不忍通りを隔てて六義園の南側に広がる広大な長方形の敷地(現在、文京グリーンコートのある区画)を得て本格的な研究施設の建設が始まり、3代目の大河内正敏所長の時代(1921~46年)に当時としては画期的な主任研究員制度(主任研究員の指導下に研究室を独立させ、研究課題から人事、予算の使い方まで主任の権限にまかせる方式)を導入。また、実験機器などを独自生産する工作部をを強化して経費の削減に努める一方、研究成果の工業化による独立経営を積極的に推進。タラの肝油から抽出したビタミンAや吸湿剤のアドソール、合成酒、アルミニウムに耐蝕性を持たせたアルマイト、高電気抵抗器リケノーム、陽画感光紙、ピストンリングなどを製造販売する会社を続々と設立して最盛期の昭和14年には63社を傘下に収める「理研コンツェルン」(終戦後の財閥解体で解体)を作り上げ、各社の特許収益の3割を研究所の運営に充てて「研究の自由」を守った。
昭和7(1932)年に旧理研の仁科芳雄研究室に入り、旧理研を「科学者の自由な楽園」と呼んだ朝永振一郎は、同名の著書(江沢洋編、岩波文庫)の中で、当時の理研には「研究の自由」があったと指摘し、(1)研究について外からの指示命令がない(2)講義の義務がない(3)学閥も見当たらない(4)勤務時間の制限がない(5)義務は何もないのに月給はちゃん出る(6)討論の際に形式的な儀礼は必要としなかった-と語っている。「研究テーマや方法の選択は研究員の自主性にまかされており、研究が役に立たないからといって文句をいわれることもなかった」というのだ。
アルマイトを発明した宮田聡も「われわれはなにかを発明しようとか、業績をあげようとか、そういう目的を初めから設定することなく、研究自体に身を沈めて楽しむというか、自由に味わうというか、そういう境地で研究できた」(「『科学者の楽園』をつくった男」宮田親平著、河出文庫)と述懐している。さらに、青年時代に大河内の信任を得て自らの事業を発展させ、研究所に出入りする中で「自分の知識の土台」を身に付けたという田中角栄元首相は、「(旧理研は)戦前の日本を代表する学者…碩学がキラ星のごとくいた。…梁山泊だった」(「田中角栄回想録」早坂茂三著、集英社文庫)と語っている。それだけ、多様な人材を引き付ける魅力的な環境が作られていたのだ。
朝永は先の著書の中で、戦後、理研の前身である特殊法人理化学研究所の初代理事長に就任した長岡治男(故長岡半太郎博士の長男)が「とにかくよい人を集めることだ」と語っていたことを紹介しながら、「金、体制、運営、その他いろいろな問題がある。が、研究にとってなにより必須の条件はなんといっても人間である。…よい研究者は、何も外からの命令や指示がなくても、何が重要であるかみずから判断できるはずである」と締めくくっている。
政府は、「業務の質と効率の向上」を目指す独立行政法人改革の目玉として「特定国立研究開発法人(仮称)」の設置を進めている。これは理研などごく少数の研究開発型法人を対象とし、国家戦略に基づき世界トップクラスの成果を上げることを目指す制度だ。中期的(5~7年)に目標設定と評価を行い、総合科学技術会議と主務大臣の関与を強め、優秀な研究者への高額報酬を認めるなど業務運営上の特別な措置を可能にするというのがその骨格だ。旧理研の経験や特徴をそのまま現在の激しい国際競争の中で巨大化・複雑化した理研に適用するのは不可能だが、良き人材を集め、最も自由な研究と討論が行われる環境を保障することが研究所の基本であることを忘れてはならないはずだ。(敬称略)