良き最期を、生きることと死ぬことを考える


 『死という最後の未来』(著者:石原慎太郎、曽野綾子/幻冬舎)がネット上で話題になっている。石原氏87歳、曽野氏88歳と、ほぼ同い年。家も近所で昔からの友人というが、意外にも会う機会はほとんどなかったという。

 法華経を哲学と言う石原氏に対して曽野氏はカトリック教徒。思考の土台がまったく違う両者が「人は死んだらどうなるのか」「老いについて」「死後は目に見えない何かがあるのか」「コロナは単なる惨禍か警告か」など人生について語り合っている、というのも、ネットやテレビ番組で取り上げられる理由だろうか。

 学生時代、といっても四十数年前のことだが、大学の落語クラブに属していた筆者は近隣の看護学校の落語クラブと交流があった。「生死に直面する場で、笑顔を絶やしたくない」というのが理由だった。

 看護学生に話を聞いたところ、看護という仕事をしていると、「命の大切さを痛感する。生まれる瞬間に出合う感動は大きい。また、患者の死に立ち会い、力不足、悲しい場に出合うことも多い」と言っていた。医師・看護師は患者に対して、できる限りの手当てをするが、最後は本人の生きる力だと実感すると言っていた。

 死を迎える場面で、看護師個人の人生観・宗教観が現場の雰囲気に反映するという。極端に言えば、唯物主義的に「死んだらそれでおしまい、だから命ある間にできるだけの手当てをする」という考えと、永遠の命(魂の世界)を信じる者は「永遠の世界に行く前に、本人も親族も納得する、できるだけのことをしてあげよう」ということになるという。

 人は50~60歳を迎えると、老後、終末期の生活に関心を持つようになる。良き最期を迎えたい、と思うのは万人共通のことだろう。そういう意味でも法華経の石原氏とカトリックの曽野氏の対談は興味深い。

(和)