市川市が育んだ俳人 能村登四郎と能村研三展


句集や色紙、直筆原稿、ペン、写真資料など展示

市川市が育んだ俳人 能村登四郎と能村研三展

市川市文学ミュージアム会 (増子耕一撮影)

 千葉県市川市の市川市文学ミュージアムでは、能村登四郎の生誕110年、没後20年を記念して「俳人能村登四郎と能村研三展」が通常展示エリアにて開催されている(令和4年1月27日まで)。サブタイトルにあるように「二人は市川市が育んだ俳人」だ。

 登四郎が1911年に生まれたのは東京都台東区谷中だが、1938年開校間もない旧制市川中学校(現・市川学園)に国語教師として奉職して以来、2001年に没するまで63年間を市川市八幡で暮らした。

 教師の傍ら「馬酔木」の水原秋櫻子に師事して俳人として活動。1970年「沖」を創刊して主宰者となり、14冊の句集がある。現代俳句協会賞や蛇笏(だこつ)賞を受賞し、俳壇最高峰の評価を得てきた。今瀬剛一、鈴木鷹夫ら優れた俳人を多く育てた。

 息子の研三さんは1949年市川市八幡で生まれ、2001年「沖」主宰を継承した。創刊理念「伝統と新しさ」を受け継ぎ、「ルネッサンス沖」を掲げて新境地を開いている。現在、俳人協会理事長。

 会場には、中央にガラスケースが並んでいて、二人の業績と生涯を示した句集や色紙、直筆原稿、ペン、写真資料などを展示している。

受け継がれた炎の魂、少し異なる市川への思い

 展示は「火の系譜」と題され、登四郎の「火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ」などの代表句と共に、研三さんの「打ちつけて火の生まるるか冬怒涛」などの句が示され、新しさを追求した登四郎の燃えたぎる炎の魂は、研三さんにも受け継がれていることを示す。

 会場に来て思い出したのは、水原秋櫻子の編集した『俳句鑑賞辞典』(東京堂出版)のこと。秋櫻子の俳人協会会長時代の編集で、執筆協力者を3人集めた。能村登四郎、林翔、福永耕二で、3人とも市川学園の国語教師。弟子たちの中で最も信頼していた人たちだ。市の誇りとする俳人たちで、学園の第1グラウンドには3人の句を刻んだ句碑がある。

 研三さんは、「沖」創刊当時大学生で、発行業務や句会世話係を母親と手伝ったという。「沖」には福永耕二が青年を指導する句会があり、創刊翌年から参加。卒業後は、市川市役所に入庁し、勤務の傍ら「沖二十代の会」(後に「舵の会」)を結成して、福永と共に吟行に出掛けた。1992年『鷹の木』で俳人協会新人賞を受賞。

 50代になると、市の文化振興の職務を担うことになった。東山魁夷や永井荷風など、多くの文化人ゆかりの地として、また文化芸術都市として、全国に発信すべく力を注いだ。2008年には市の文学館構想を実現するために尽力し、2013年、市川市文学ミュージアムは開館を迎えた。現在、市川市芸術文化団体協議会会長でもある。

 ガラスケースの窓側には水木洋子、井上ひさし、宗左近、永井荷風の等身大の写真が並び、市川ゆかりの文人を紹介するほか、企画展示室では収蔵展「市川を愛したゆかりの作家10人の品々」も12月19日まで開かれていて、市川市の文人が勢ぞろいしている。

 東京から移ってきた登四郎と、そこで生まれ育った研三さんとでは、市川への思いが少し異なるようだ。「東京をふるさとにもち春惜しむ」と登四郎が詠んだのに対し、「朧濃し一生一郷棲まひかも」と研三さんは詠む。

(増子耕一)