フォビア時代への処方箋はこれだ!


パリの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」本社へのテロ襲撃事件はフランス国民だけではなく、世界に大きな衝撃を与えている。11日にはパリで欧米の閣僚会議が開催され、反テロへの結束を強めた。

 仏週刊紙本社襲撃の直接の動機はイスラム教の預言者ムハンマドを風刺した画を掲載したことに対する報復という。ただし、同週刊紙は過去、イスラム教だけではなく、キリスト教やユダヤ教など他の宗派を対象とした風刺も掲載し、話題を呼んできたメディアだ。すなわち、欧州社会に席巻するイスラム・フォビア、クリスチャン・フォビア、そして反ユダヤ主義といったテーマを面白、可笑しく風刺してきたのだ。

 フォビア(phobia)は本来、社会学用語で、その意味は「恐怖感」だ。さまざまなフォビアが存在するが、それぞれ独自の歴史、社会現象、時の政情などが絡んでくるから一概に「原因はこうだ」とは断言できない。ここでは、なぜフォビアが生じるのかを考えてみた。

 米国内多発テロ事件(2001年9月11日)後、世界的にイスラム・フォアビアが見られる。同時に、中東諸国のイラク、シリアなどではクリスチャン・フォビアが見られ出した。多数の小数宗派キリスト教信者たちが故郷を追われ、難民となっている。今回の仏週刊紙テロ事件となったフランスではここ数年、ユダヤ系住民やシナゴークが襲撃される事件が多発し、フランス生まれのユダヤ系住民がイスラエルに移住するケースが増えている。実際、イスラエルのネタニヤフ首相は10日、「フランスからのユダヤ人の移住を歓迎する」と述べているほどだ。

 現代人は民族、国籍、文化、風習の違いなど、相違点に敏感となり、共通点への意識が欠如する結果、他者への理解が欠け、フォビアが生まれてくるのではないか。

 キリスト教社会に生きる国民にとってイスラム教徒の風習や服装は時に恐怖感を与える。ユダヤ人の場合もそうだ。外観から違いがはっきりしている場合、フォビアは一層、容易に生まれやすい。経済的、社会的困窮な時代には、その相違は拡大され、「彼らはわれわれとは違う」という認識となって定着していく。

 それではフォビアへの処方箋は何か。相違点がフォビアを誘発する要因とすれば、その逆の道を取ればいいわけだ。すなわち、共通点を探すことだ。

 当方はこのコラム欄で最近、「同時代の人々への連帯感」という記事を書いた。同じ時代に生きているというのも一つの共通点だ。エルヴィス・プレスリーと北朝鮮の金正恩氏が同じ誕生日だ、というのも一つの共通点だろう。共通点はその気になれば到る所で発見できる。それを探す作業を意識的に進めていけば、フォビアが生まれる余地は自然に減少していくのではないか。

 共通点探しを広げて考えてみよう。「われわれは全て人間だ」、これも共通点だ。これは人権擁護の精神的核だ。「同じ国に生まれた」という事実も立派な共通点だ。その上に愛国心が出てくるわけだ。宇宙時代の今日、「われわれは地球人だ」というアイデンティティが誕生すれば、地球上の紛争は馬鹿げたことになる。読者の皆さんも家族、会社などの周辺で自分と他者の間の共通点を探し出してみてほしい。共通点は相違点に負けないほど多く見い出せるはずだ。

 参考までに、オピニオンの世界では同じ意見を繰り返す論客より、斬新な相違点を見つけて論評する評論家は話題を呼ぶ。相違点に基づく批判精神が過大評価される社会だ。宣伝の世界では、「わが社の商品はあの会社の商品と同じです」といったコマーシャルを流せば、消費者の関心を失う。だから、「わが社の商品はこの点とここがあの会社の商品とは違います」といったコマーシャルが重要となる。違いが生命線なのだ。

 宗教間の対立もその教義の違いが浮上すれば、エスカレートする。国家間の紛争も国益の相違が原因となる。もし、宗教界も世界の国々も相違点を忘れ、共通点を見つける努力を重ねていくならば、宗教戦争や国家紛争も少なくなり、フォビアを克服できるのではないか。

 教育の場でも相違に基づく批判精神の向上だけではなく、共通点に基づく連帯感の育成に力を注ぐべきだろう。シンプルなことだが、フォビアへの最強の処方箋は「われわれは同じ人間であり、等しく幸福を求めている」という共通点の再認識だろう。

(ウィーン在住)