ヒトラーはモンスターでなかった
ドイツでアドルフ・ヒトラーを主人公にした「帰ってきたヒトラー」(Er ist wieder da)という映画が製作中だ。2012年に発表されたティムール・ヴェルメシュの風刺小説の映画化だ。ヒトラーが現代社会に現れたらどうするか、というテーマで可笑しく、ある時は諷刺を利かしたストーリーで話は展開される。
ヒトラーの映画化を契機に、ドイツのメディア、知識人、歴史学者の間で、「ヒトラーを喜劇の主人公と見なすことは可能か」、「ヒトラーの戦争犯罪をぼかすことにならないか」、等の議論を呼んでいる。
独週刊誌シュピーゲル(12月1日号)で編集責任者の一人、Dirk Kurbjuweit氏は「ヒトラーを抱擁する」というタイトルで非常に興味深いコラムを書いている。同氏は以前、ヒトラーをモンスター(怪物、化け物)のように考え、出来る限り遠ざけてきたが、ある日、ヒトラーのプロパガンダ映画を制作した女性監督と会う機会があった。既に100歳近い彼女は、病気で床に就いていた時、ヒトラーが見舞いに来た話を語った。彼女は「彼は繊細で優しい男性だった」と証をしたという。同氏はその女性との会見後、ヒトラーを見る目が変わったという。すなわち、ヒトラーはモンスターではなく、われわれと同様の生身の人間であったと悟ったのだ。同氏曰く「彼は決して特別な被造物ではない」と書いている。
多くのドイツ国民にとってヒトラーは依然大きなハードルだ。第2次世界大戦後、ヒトラーは悪のシンボルであり、その言動は決して評価できない。喜劇の主人公として人間ヒトラーを演じることなど考えられなかった。戦後70年が過ぎようとしている今日、ドイツ国民の中に「ヒトラーを英雄視できないが、モンスターのように全て否定し、遠ざけていくだけでは十分でない」という声が聞かれだしたのだ。
具体的には、ヒトラーを単に600万人のユダヤ民族を大虐殺した悪魔のような存在ではなく、われわれと同じ人間だった。熱い血が流れ、病人に同情する人間の一人だったという見方が再評価されてきたわけだ。小説「帰ってきたヒトラー」は、ヒトラーに対する社会の認識の変化を作品化したもの、といえるだろう。
少し飛躍するが、2000年前のイエスの場合も同じことがいえる。彼はメシアであり、人類の罪を救済するために十字架上で亡くなった。イエスの神聖を疑う人間は不信仰、異端者と追放された。
しかし、イエスは救い主だったが、スーパーマンではなかった。新約聖書にはイエスが行った数多くの奇跡が記述されているが、それらはイエスの神聖を強調するために後日付け加えられたものに過ぎない。イエスはわれわれと同じように痛みを感じ、喜びを感じる一人の青年だったはずだ。イエスを神のように拝むことでイエスの人間性、その喜怒哀楽を恣意的に排除してきたのではないか。ローマ・カトリック教会の教義の中にはその傾向が強い。イエスが一人の男性として女性と結婚し、家庭を築きたかったと主張すれば、異端として一蹴されてきたのが教会歴史だ。
ヒトラーはモンスターであり、イエスは神の子だ。ヒトラーが犯したユダヤ人大虐殺はモンスターの仕業であり、イエスが十字架上で殺害されたのは神の計画であり、彼は神の子だった……、われわれは久しくこのように教えられてきた。換言すれば、ユダヤ民族を抹殺しようとしたヒトラーは悪魔であり、人間の罪を償うために十字架で亡くなったイエスは神そのものであった、と考えてきた。
しかし、そのような考えからはヒトラーの戦争犯罪に対する真の謝罪や償いは出てこない。ヒトラーがモンスターだったからだ。イエスの場合も十字架救済が神の計画なら、イエスを殺害した罪を選民ユダヤ民族や人類に帰することはできない。われわれはヒトラーの蛮行からもイエスの悲劇からも両者の人間性を意図的に無視することで責任の追及を免れてきたわけだ。
だから、イエスとヒトラーの“人間復活”によって、われわれは歴史の隠されてきた事実に初めて直面するかもしれないのだ。換言すれば、人間イエスはわれわれに何を伝えたかったのか、人間ヒトラーはなぜ戦争犯罪を犯したのか、等の疑問にこれまでとは違った答えが見つかるかもしれないからだ。
ちなみに、イエスとヒトラーには不思議な一致点がある。神の子イエスの遺体を葬った墓が存在しないように、モンスター・ヒトラーの遺体は燃やされ、彼の墓はどこにも存在しない。
(ウィーン在住)