万葉集は日本のバイブル
万葉人の生き方に学ぶ
万葉の花研究家 片岡 寧豊さんに聞く
新元号の「令和」が『万葉集』から取られたことで、にわかに万葉集への関心が高まっている。奈良に在住し、万葉の花研究家として活躍している片岡寧豊(ねいほう)さんに、万葉人の生き方について伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
人間も自然の一部
恩恵を受けながら生活
「令和」が『万葉集』から取られたのは、万葉の花研究家としていかがですか。

かたおか・ねいほう 小原流一級家元教授の資格を持ち、万葉花寧豊会を主宰する。2010年の平城遷都1300年祭では「花と緑のフェア万葉華しるべ」7カ所で花のオブジェと案内文を担当。生け花の指導のほか文化講座や花巡りの講師のほか、今夏8月2日からあべのハルカス近鉄本店タワー館11階美術画廊での「南都華香会書作展」《入場無料》の書の会場に生花を添える。『やまと花万葉』『万葉の花』など著書多数。
とてもうれしいです。漢籍ではなく国書からの引用は初めてのことで、日本最古の和歌集から選ばれたことが素晴らしい。『万葉集』巻5「梅花歌」32首の序文中にある「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かおら)す」(初春のよき月の下に、空気は澄んで風は穏やか、梅はさながら女性が鏡の前で化粧する白粉(おしろい)のように白く咲き、蘭は匂い袋のように香っている)から取られました。私は月刊誌『煎茶道』(平成27年2月号)でランについて書いた時、この序文を紹介しました。
天平2年(730年)正月13日、太宰府で「梅花の宴」を開いたのは、万葉集の編纂者・大伴家持の父・大伴旅人で、大宰府の長官です。旅人は大納言に昇進して都に戻ることになり、大宰府が管轄していた西海道(九州)の官人たちを邸宅に招き宴を開いたのです。
それを70年さかのぼる663年、唐と新羅の連合軍に白村江で完敗し、4万2千の兵を失った日本は唐の侵攻に怯えていました。天智天皇は都を近江に遷(うつ)し、百済人を使って対馬から畿内までの要所に山城や水城を設け、関東からも集めた防人(さきもり)を九州沿岸の防衛に当たらせます。
「道の辺の茨(うまら)のうれに、延(は)ほ豆の、からまる君をはかれか行かむ」(巻20、道端のうまら(ノイバラ)の先に絡みつく豆のように、私に絡みつく君をおいて別れゆく)は天平勝宝7年(755年)2月、上総国(かずさのくに)の防人を引率する役人の茨田連沙弥麻呂(まむたのむらじさみまろ)が進上したとされ、防人に選ばれた丈部鳥(はせつかべのとり)が妻との別れを悲しむ歌です。
その危機が去ったのは高句麗滅亡後、朝鮮を統一した新羅が反唐政策に転じたからで、諸国からの防人が天平2年9月に停止されます。大宰府は防人を統括する役所ですから旅人は穏やかな気分で宴を催したのでしょう。
上野誠奈良大学教授は、「万葉集は8世紀の声の缶詰、言葉の文化財」と言っておられます。
犬養孝大阪大学名誉教授は「万葉集は日本のバイブル」とおっしゃっていました。全20巻4500首以上の和歌が収められており、天皇、貴族から下級官人、防人、大道芸人、農民、乞食者(ほかいびと)までさまざまな階級の人が登場し、古代の歴史や人々の暮らしなど民俗学的なものも分かる素晴らしい歌集だからです。
巻頭は雄略天皇の歌で始まります。奈良時代でも雄略天皇が特別な天皇として意識されていたことが分かります。
「籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告(なの)らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居(お)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも」(美しい籠を持ち 美しいへらを手に持ち この丘で菜を摘む乙女よ きみはどこの家の娘なの? 名はなんと言うの? この大和の国は すべてわたしが治めているんだよ わたしこそ名乗ろう 家柄も名も)ですね。天皇が野原で菜を摘む女の子に求婚する歌が冒頭にあるのも大らかで楽しいですね。
『万葉集』の中の1700首余りの歌に150種以上もの植物が詠(うた)い込まれています。
一番多いのがハギで141首、2番目がウメで118首です。ハギが多く歌われたのは、それだけ身近に咲いていたからでしょう。ウメは寒さが厳しい時に凛(りん)と咲いて、かぐわしい香りを漂わせるのが好まれました。中国原産のウメを庭に植えるのは、中国の進んだ文化を受容し、日本に根付かせることを意味していると思います。女性同士が傾け合っている杯に梅の花びらが浮かんでいるという歌もあり、楽しい光景を連想させます。
前掲の序文の「梅は鏡前の粉を披(ひら)き」というのは白梅でしょう。「珮(はい)」は奈良時代に礼服に着けた匂い袋で、今でも和服好きの女性には匂い袋を愛用されている人が多いですね。
家持はナデシコを詠っています。
「愛(うるは)しみ我が思う君はなでしこが 花になそへて見れど飽かぬかも」《巻20》は「ご立派と思うわが君は、美しいナデシコの花に見立てて、いくら見ても見飽きることがありません」といった意味です。「一本(ひともと)のなでしこ植ゑしその心 誰に見せむと思ひそめけむ」(巻18、一本のナデシコを植えたのは、みんなあなたに見せたいと思うこころからですよ)では、家持の家の庭先にナデシコが植えられていたことが歌からうかがえます。
ナデシコは「撫でし子」に通じることから、しばしば子供や女性に例えられてきました。大和撫子は古代に中国から入ってきた唐撫子(セキチク)に対する呼称で、本来の名前はカワラナデシコです。『万葉集』ではナデシコを歌った歌が26首あり、そのうち8首が愛しい女性をナデシコに重ねた歌です。それが素敵な日本女性を表す言葉になったのは、園芸が盛んになった江戸時代から。今のなでしこジャパンだと素敵な上にがんばる強い女性ですよね。
現代人が万葉人から学ぶのはどんなことですか。
人間も自然の一部で、その恩恵を受けながら暮らしているという感性でしょうね。時候のあいさつにも、桜の季節の「花冷え」のように自然が出てきます。そして、昔から語り継いできた日本語を大切にすることです。中国からお借りした漢字のおかげで、万葉時代の日本語を知ることができるのはとても幸いです。
令和の考案者とされる中西進先生は、令和を「うるわしい平和」と説かれていますが、それが万葉人の心のように思います。