人口会議で「子供は2人まで」、警告に逆行する74年決議

 1974(昭和49)年7月、東京・霞が関の国立教育会館で開かれた第1回「日本人口会議」で、子供の出産数の制限を呼び掛け「子供は2人まで」という趣旨の前代未聞の決議がなされた。ほかに人口庁の設置やピル、IUD(避妊リング)公認などの要望も採択された。人口問題研究会、日本家族計画連盟など民間4団体が共催して開かれたもので、旧厚生省や外務省が後援・協賛していた。

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 1971~74年は第2次ベビーブームの到来で、出生数がピンポイントで増加。73年にはオイルショックがあって、資源と人口に関する危機感をメディアがずいぶんあおり、人口過剰の弊を盛んに強調した。

 「人口会議」は、当時、毎年130万人ほど増え続ける人口にどう対処するかを討議するために開かれ、会議には斎藤邦吉・厚生大臣が出席、画家の岡本太郎氏らが人口抑制をテーマに講演した。年間130万増加は緩やかな人口増加にすぎないが、この機に産児制限を全国的に周知させようとする意図が政府にあったことがうかがえる。

 もう一つ、産児制限への舵(かじ)取りを加速させた理由がある。この時、人口会議に出席した国連人口活動基金事務局長や東南アジア家族計画人口問題政府間委員会事務総長L・S・ソディ氏らが記者会見し、「日本の将来のためにも子供2人の小家族が望ましい」「日本はアジアで人口抑止に成功した唯一の先輩国として尊敬はするが、半面失望もしている。言葉の障害などでアジアの実情を知ろうとしないから本当の協力になっていない」(以上、ソディ氏)と発言した。

 欧米諸国は当時、アジアの人口爆発に脅威を感じていた。それを取り払う先兵として目を付けられたのが経済成長の著しいアジアの優等生・日本。率先して人口減少に尽くし、手本を見せるべきだ、というのである。これは国連機関なども主張していたが、何か脅迫めいたものすら感じられる。日本政府は敏感に反応した。政府は、少子化を懸念し始めていたはずなのに、彼らの主張を真に受け、まったく反対の道を歩みだしたことになる。

 当時、年間の出生数は、1975(昭和50)年には200万人を割り込み、以降、毎年減少した。また厚生省人口問題審議会は、①わが国の出生力も再生産力も若干の東欧共産諸国を除いて、世界最低の部類に属する②出生力も再生産力も人口の静止限界(人口の増減率がゼロ)を割っている③そのような状態が10年以上も続いている、10年以上も続くことは世界でもまれ――と将来の人口減少を憂慮、警告していた。

 だが、「子供2人」のスローガンが当時の人々に与えた影響はよほど強く、以後、日本社会は「子供2人」が定着していった。

(人口減少問題取材班)