「玄黙」貫いた終戦工作 救国の宰相鈴木貫太郎生誕150年

東大名誉教授 小堀桂一郎氏に聞く

 昭和天皇の篤(あつ)い信任を受け、巧みな終戦工作によって日本を滅亡の危機から救った終戦時の宰相・鈴木貫太郎。今年はこの救国の宰相の生誕150年に当たる。折しも昨年暮れ「ミネルヴァ日本評伝選」の一冊として『鈴木貫太郎―用うるに玄黙より大なるはなし―』(ミネルヴァ書房)を上梓(じょうし)した、小堀桂一郎・東京大学名誉教授に鈴木貫太郎の人物像とその足跡について聞いた。
(聞き手=編集局長・藤橋 進)

味方にも腹の内明かさず
重臣達が信頼した政治力

鈴木貫太郎については先生の旧著に大宅壮一賞を受賞した『宰相 鈴木貫太郎』(文藝春秋)がありますが、その本では首相として終戦工作に当たったときのことが中心でした。今度上梓された評伝では、首相になるまでの足跡特に海軍軍人としての業績がよく分かり、それが終戦時の国難を救うための行動と見事に結び付いていると感じました。新著では、その出生から書き起こしておられますが、生まれが慶応3年、日露戦争の日本海海戦で活躍した秋山真之が海軍兵学校の3期後輩になるんですね。

小堀桂一郎

 こぼり・けいいちろう 昭和8年東京生まれ。東京大学大学院博士課程修了。専攻は比較文学、日本思想史。現在、東京大学名誉教授。著書に『宰相・鈴木貫太郎』(文藝春秋)、『日本に於ける理性の傳統』(中央公論新社)、『森鷗外――日本はまだ普請中だ』(ミネルヴァ書房)ほか多数。

 小堀 数え年では、慶応4年つまり、明治元年生まれの夏目漱石、正岡子規と同い年で、明治何年というのがそのまま年齢と考えていいわけです。

そこでまず、青年期の思想形成について、前橋中学時代よく読んた書物が頼山陽の『日本外史』で、原文を諳(そら)んじるほどだった。

 小堀 鈴木さんより少し前の伊藤博文や山縣有朋など、明治の元勲と言われる人たちが青年時代に必ず読んだのが『日本外史』です。『日本外史』も読まないようなやつは所詮物にならない――と、そのくらいに言われた基礎的な教養の書でした。鈴木さんは明治の元勲たちに劣らずに楽に読みこなしていた最後の世代だと思います。

 いい対照になるのは、浜口雄幸です。例の統帥権干犯問題の時の総理大臣ですが、この人は元来読書家ではなく、当然『日本外史』は読んでない。その違いがはっきり表れたのが、統帥権干犯問題だった。この問題は野党代議士の政権与党に対する攻撃意図から始まった程度の低い言い掛かりですが、それを適切に処理できなかったことで、浜口は狙撃されて命を落とすことになる。

 そのとき鈴木さんは侍従長でしたが、統帥権についての考え方ははっきりしていました。統帥権を持っているのは幕府の将軍ではなく天皇である。天皇の統帥とはそれだけの事だ。また日本の軍隊は天皇が思うがままに動かせるような機構では全くないのだ、ということが分かっていた。そして少年時代に『日本外史』をよく読みこなしていましたから、日本の国体と立憲政治という概念を明瞭に把握していました。それが終戦工作の最後の決断の時によく現れています。

海軍に入ってからは、水雷を専門とし、日清戦争、日露戦争で活躍するわけですが、当時はまだ水雷戦術の草創期だった。

 小堀 日本海軍も発足当時は水雷なんてどう扱っていいか分からなかったのです。鈴木さんが海軍省軍務局軍事課にいた時、軍令部がロシアのマカロフ提督の長距離魚雷戦術の採用を決める。ところが水雷の専門家として鈴木さんは、魚雷なんて距離は500~600メートルぐらいまで近づいてから発射してこそ、効力が出るのだと言って、頑として長距離魚雷戦法の採用に判を押さなかった。海軍省の課長でもない課僚だった。そういう反骨の精神というか、何が正しいのかという見識は非常にしっかりしていたのですね。

今回の本では、海軍での事績を丹念に追っておられますが、加藤友三郎から打診されて結局辞退した海軍大臣以外のポスト、海軍次官、海軍兵学校長、連合艦隊司令長官、軍令部長など、ほとんどの重職を歴任し、それぞれ非常に大きな実績を残していますね。

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小堀氏の新著『鈴木貫太郎』(ミネルヴァ書房)

 小堀 この評伝を書いていて発見したのは、この人は専ら実戦派と見られながら実は意外に軍政の面でも功績があるということです。海軍次官の時、第1次世界大戦に日本が参戦したが、日英同盟があるからイギリスから日本も参戦して地中海に軍を出してくれと要請が来る。陸軍は断りますが、海軍は要請に応えて地中海に駆逐艦隊を派遣する。これは連合国の商船団の護衛に大きな効果を挙げ、イギリスをはじめとする連合国から高い評価を受けます。その時に派遣された駆逐艦は、鈴木さんが第1次欧州大戦の開戦を見て、これは日英同盟が存在する以上、支援の要請が来るだろうと、急遽(きゅうきょ)建造させたものです。

 当然予算が要るが、その予算の段取りが実に巧妙だった。政友会の代議士に当たりを付け、いわゆる根回しをして、駆逐艦10隻の建造をあっさり認めさせてしまう。そういう軍政上の勘の良さ、思い付きを実行に移す機転の才は軍令部長時代にも存分に振るっています。

先の大戦でいよいよ日本が国家存亡の時を迎え、和平か徹底抗戦かという場面で、大命降下するわけですが、鈴木貫太郎が指名された一番の理由は何だったのでしょう。

 小堀 あの時の重臣と言われている人たち、内閣総理大臣の経験者、東條大将もいたが、それ以前の首相としての広田弘毅、若槻禮次郎、岡田啓介、その人たちが鈴木さんの政治的な力量をちゃんと知っていた。岡田さんは鈴木さんの1年後輩ですが、軍政家としての鈴木さんの実力、冒険心があって機転の利く人であると知っていて、今の国難を救うには鈴木さんの政治力に頼るしかないという認識があったのです。

 昭和天皇から汝(なんじ)に組閣を命ずると仰せられたとき、「私は政治経験がないし、明治天皇の軍人勅諭の中にも軍人は政治に関わるなとあります」とまずはひたすら辞退の姿勢でしたが、それでもなぜ鈴木さんになったのかという疑問がありました。調べてみると、重臣たちの間ですでに鈴木以外にないと決まっていたのです。

予備役編入後、侍従長として昭和天皇にお仕えし、その時の経験もあって、昭和天皇の御信任も篤かった。

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千葉県野田市関宿町にある鈴木貫太郎記念館前に立つ塔。終戦の詔書からとった「為萬世開太平」が鈴木貫太郎の揮毫で記されている

 小堀 昭和天皇が汝に組閣を命ずると仰せられたとき、普通でしたら必ず三つの条件を付けられる。一つは憲法を重視せよ。二つ目は外交関係で冒険的なことをしてはならぬ。三つ目は意外のことのようですが経済関係に配慮せよとの御注意なのです。しかし、あの時ばかりは無条件の大命降下でした。それは鈴木さんに対する信頼の表れという見方もできる。しかし憲法を守れという項目がなかったというところは、やむを得ない時は憲法の枠を踏み越えてでも血路を開けという含みとも取れます。8月10日の御前会議で意見が3対3に分かれて、そのとき鈴木さんが終戦に賛成すれば4対3で決まった。しかし単なる閣議の多数決では徹底抗戦派が反発しクーデターを起こすかもしれない。そこで有名な場面ですが、鈴木さんが陛下に御聖断を頂戴したいと言う。そしてポツダム宣言受諾に賛成するとのお言葉を受ける。これはある意味で鈴木さんをして輔弼(ほひつ)の任の放棄という憲法違反を犯させたとも言える。昭和天皇とぴったり呼吸が合っていたからこそできたことで、最初に憲法を守るようにという条件が付いていなかったことが生きたと思います。

最終的な決断までとにかくいろいろあったわけですが、国会での施政方針演説を通して和平のシグナルを送ったりもしている。

 小堀 外務大臣の東郷茂徳も立派な人でしたが、外交官としての人脈・回路はソ連とドイツにしかなく、ソ連を仲介として連合国と和平を結ぶしかないという発想にとどまっていた。しかし鈴木さんだけは、直接アメリカに和平を呼び掛ける考えだった。そこで昔、練習艦隊を率いてサンフランシスコやロサンゼルスに行った時の講演の評判が良かったことを思い出し、あれを生かそうとした。こんな冒険的な和平提案を暗号で発信する構想は鈴木さんにしかなかった。

二・二六事件で反乱将校に襲われた際、たか夫人のおかげで命拾いしますが、その前の晩は、駐日大使のジョセフ・グルーに招かれ米大使館での晩餐(ばんさん)会に出ているんですね。

 小堀 知日家のグルーを知っていて、この人なら私のメッセージを解読して受け止めてくれるだろうと予想した。すごい冒険心です。今回調べて分かったことは、和平の用意ありというあの暗号発信は成功していたということです。フーバー大統領の回顧録や、アルバート・ウェデマイヤー将軍の回顧録などを読んでみると、彼らは鈴木が和平のメッセージを発信していると解釈していた。これを連合国側が活用せず、終戦をいたずらに先延ばしにしたのはアメリカの誤りである、とウェデマイヤー将軍は言っています。

そして最大の問題は、国内の陸軍を中心にした徹底抗戦派をどう抑えていくかということになるわけですね。

 小堀 連合国側は日本首相は和平を打診していると受け取っている。しかし国内でそれが知られたら大変なことになる。すぐに倒閣運動が起こって内閣は倒され、総理暗殺の危険もある。ではどうやって、味方を欺いてでも、うまく対米発信するか。改めて思ったのは、著書の副題にも使った「用うるに玄黙より大なるはなし」。とにかく腹の内を明かさない戦術が成功した。味方の終戦派にも悟られないように。高木惣吉海軍少将などは欺かれたことを後で知って口惜しがるのですが、高木少将にばれるようならこの終戦工作は失敗していた。いかに高木少将とその上の米内光政、井上成美をだますことになっても腹の内を悟られないようにした。

 さらに付け加えたいのは、陸相の阿南(惟幾)さんには感付かれていたと思う。しかし鈴木さんの気持ちをくみ取って抗戦派を装って最後は自刃したのは実に立派でした。鈴木さんの玄黙を守っての工作とそれを分かっていて陰で支えていた阿南さんの力が大きかった。

今の日本も国難の時期。鈴木貫太郎から学ぶことがたくさんあるように思います。

 小堀 今の日本に対する東京裁判史観固執者たちの風当たりは依然として厳しい。対米、対EUは和解の成立が可能ですが、中、韓、ロシアの対日敵意は彼らの政治的必要ですから決して衰えない。そこで大事なのは、腹の中で十分戦略を練って、簡単に悟られないよう作戦を進めて、時が来たら果敢に決断を下す。安倍さんには、鈴木さんを見習って、しっかり日本をリードしてほしいですね。

鈴木貫太郎

晩年の鈴木貫太郎とたか夫人

鈴木貫太郎・略年譜

慶応 3(1867)年 和泉国久世村(現・堺市)に生まれる
明治17(1884)年 海軍兵学校(14期)入学
明治27(1894)年 日清戦争起こる。旅順・威海衛攻略に水雷艇長として参加
明治38(1905)年 日本海海戦に第4駆逐隊司令として参加
大正 3(1914)年 海軍次官となる
大正 6(1917)年 練習艦隊司令官に補せられる
大正 7(1918)年 海軍兵学校長に転補
大正12(1923)年 海軍大将に任ぜられる
大正13(1924)年 第1艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官に補せられる
大正14(1925)年 軍令部長となる
昭和 4(1929)年 侍従長となり、枢密顧問官を兼ねる
昭和11(1936)年 二・二六事件で反乱軍の襲撃を受け銃撃されるが一命を取り留める
昭和19(1944)年 枢密院議長となる
昭和20(1945)年 4月内閣総理大臣を拝命、2度の御前会議でポツダム宣言受諾が決まる。鈴木内閣総辞職
昭和23(1948)年 千葉県・関宿の自邸にて死去