儒教文化、日韓の起点に違い
士人の国、隣の国
朝鮮近代史、思想史家 姜在彦氏
韓国は日本と同じ東アジアに位置し、距離的に日本から最も近い国である。しかも同じ儒教文化圏にあるものの、融和と対立を繰り返しながら異なった歴史を歩んでいった。その根底に儒教に対するとらえ方の違いがあったと朝鮮近代史・思想史家の姜在彦氏は指摘する。11月2日に開かれた駐札幌大韓民国総領事館開館50年記念講演会の講師として招かれた姜在彦氏が「士人の国・隣の国」と題し、歴史を通して日本と韓国の交流の在り方を語った。その要旨をまとめた。(札幌支局・湯朝肇)
仏教排した李氏朝鮮
懐から出た日本儒教
日本と韓国は海を隔てて隣り合う国で、距離的には本当に近いところにある。しかも儒教文化圏に入っていることもあって両国には共通するところが非常に多い。両国を“似た者同士”“似た者夫婦”という人もいる。しかし、両国の歴史や文化をみると、物事のとらえ方や習慣に大きな違いがあることが分かる。そうした両国の“違い”をしっかりと知り、お互いに理解していくことが大事だと私は思っている。

カン・ジェオン 1926年、韓国済州島生まれ。1953年、大阪市立大学卒業。文学博士(京都大学、1981年)。大阪市立大学、京都大学、北海道大学、大阪大学、その他の大学の講師を歴任。1984年、花園大学教授。主な著書に「朝鮮近代史研究」(日本評論社)、「朝鮮の開化思想」(岩波書店)「朝鮮儒教の2000年」(朝日選書)など多数。
さて、日本と韓国は同じ儒教文化圏でありながら、中身はかなり異なっている。儒教の発祥は古代中国で、それが韓国、日本に伝わってきた。儒教に「士農工商」という言葉がある。これは官吏、農民、職人、商人という職業の身分制度を表したものだが、「士」の部分で韓国と日本のとらえ方が違った。同じ儒教文化圏でありながら、両国の行く方向が異なったのは、この「士」に対するとらえ方に違いがあると考えている。従って、「士」が重要なキーワードになる。
そこで今日は、儒教について話す場合、日本は江戸時代、韓国は李氏朝鮮王朝(以下、朝鮮王朝)の儒教を念頭に置いて話をしたい。
韓国では朝鮮王朝の前に高麗王朝があった。1392年に高麗王朝から朝鮮王朝に移行するわけだが、中国や韓国では王朝が変わることを易姓革命としてとらえていた。易姓革命とは、天が己に成り代わって王朝を地上で治めさせるが、徳を失った王朝に天が見切りをつけた時、革命が起きるという考え方だ。政権交代を正当化するための理論ともいえるが、それは王家の姓が変わることを意味した。ちなみに、日本では易姓革命はなかった。何故なら歴史を通して国治めに関わってきた天皇には姓がないので、易姓革命は起こらなかったのだ。韓国人から見れば姓がないというのは理解できないが、天皇制は日本独特の制度と言える。
ところで王朝が変わるということは、姓が変わるだけでなく建国の理念が変わることも意味している。高麗時代には仏教を国の精神的な支柱に置いた。韓国の慶尚南道にある海印寺に保存されている仏教聖典の高麗八萬大蔵経は世界文化遺産にも登録されているが、それなどは高麗仏教の盛隆をみることができる。一方、1392年から始まった朝鮮王朝は儒教の流れをくむ朱子学を建国理念とした。王朝は日韓併合の1910年まで続くが、およそ五百年以上を朱子学という建国理念で国を作っていった。他方、日本の江戸時代は1603年に始まる。1600年の関ケ原の戦いを制した徳川家康が征夷大将軍となって江戸幕府を開き、15代将軍の徳川慶喜が大政奉還した1867年までおよそ二百六十年間をいう。徳川家康は遠謀深慮に長けた人で将軍職に2年就いた後、息子の秀忠に譲り、自分は駿府城に隠居してしまう。すなわち、早く隠居することで征夷大将軍の世襲制を各大名に宣言すると同時に、全国の大名をしっかり監視していくという意味合いがあったのだろう。そして徳川家康も朱子学を政治の根幹に据えて国づくりを行っていった。
そこでここから、日本と韓国と同じ儒教国でありながら、どう違うかの点について話を進めていきたい。
韓国では「士」は士大夫あるいは両班(ヤンバン)とよばれていた。両班制度は高麗時代にもあった制度で、文臣(文班)と武臣(武班)の二つの班からなる官僚制度であった。この二つを合わせて両班と呼んだが、朝儀に際して両班が東と西に並んだことから東に列した文班を東班、西に列した武班を西班と称した。もっとも高麗時代は文科試験のみで一部を除いて武科試験はなかったため、文班優越の風潮があった。朝鮮王朝に入ると武科試験も実施され、文武両科に軽重はないとされたものの、かつての風潮は残っていた。
とにかく、両班になるためにはまず、科挙試験に合格しなければならなかった。科挙試験の大半は朱子学だった。もっとも、この科挙試験に合格することは大変なことで、幼いころから学習しなければならず、経済的にも余裕のある家でなければ受験できなかったといわれる。試験は3年に1度実施され、それを式年試といった。合格者の定員は文科33人、武科28人で受験者は全国から集まった。当初、この厳しい科挙試験に受かった者だけが両班と呼ばれていた。文科試験を最上位で合格すると、「壮元及第」といって本人ばかりでなく家門の誇りでもあった。すなわち、両班階級は世襲制ではなく、科挙に合格した者のみがなれるごく少数のエリートであった。もっとも、後世になると、不定期的に増広試だの、別試だの、謁聖試だのといろいろ理由をつけた臨時試験が行われ、式年試はしだいに形骸化し、厳格な両班制度は形骸化していった。ただ、朝鮮王朝はこの両班の下に、中人(チュンイン)、常人(サンミン)、賤民(チョンミン)が存在する身分制は続いていった。
科挙試験には文科、武科の他に雑科試験があった。雑科というのは、実用的な分野を対象にした試験で、訳科(中国語、日本語、モンゴル語など)、医科、律科、陰陽科(天文・地理など)があった。この試験は両班と常人の間の中人が受けることができ、それは中人階級だけの世襲的なものだった。
一方、日本で「士」といえば、それは侍(さむらい)の「士」、武士の「士」を意味している。儒学者といわれた新井白石でも彼は武士階級の人であった。日本の武士階級は軍隊組織になっている。すなわち、徳川家康は武家制の中に儒教を導入したわけである。江戸時代前期に幕府は昌平黌という儒学の学問所を建設するが、それをモデルとして各藩は藩校を設置する。実力本位で実力のあるものが天下を取るという下剋上の戦国時代から、武士にも教養をもたせ、徳川幕府の安定化を図るという目的のために家康は朱子学という儒教を全国に展開していったのである。
ところで、江戸時代を前後して朱子学に最初に広めたのは藤原惺窩(せいか)という人物である。彼は臨済宗相国寺の僧侶であった。壬辰倭乱で豊臣秀吉が朝鮮を攻めた際に朱子学者の姜”(カンハン)を捕虜として日本に連れて行った。姜”は京都の禅宗の僧であった藤原惺窩に出会い、朱子学を教えたことが始まりであった。徳川家康はその藤原惺窩から直接朱子学の話を聞いたという。姜”はその後、朝鮮に戻るが、惺窩は朱子学を広め、その弟子の一人である林羅山が徳川政権に入って朱子学を押し進めていくことになる。そして林羅山もまた京都建仁寺の僧侶であった。
ここで興味深いのは、韓国と日本で朱子学がどのように広まっていったのか、ということである。朝鮮王朝は高麗時代の国教である仏教を一切棄て去り、朱子学以外は見向きもしなかった。朝鮮王朝は仏教完全否定から始まったのに対し、日本は徳川幕府の理念を朱子学にするにしても、仏教を廃止することはなかった。むしろ冠婚葬祭は仏式で行っていた。日本の朱子学は仏教の懐から生まれていった。さらに言えば、徳川幕府はキリスト教を禁止したが、蘭学など洋学は禁止せず、むしろ積極的に取り入れたのである。それに対して、朝鮮王朝は朱子学以外の学問をすべて禁止した。日本も朝鮮も洋学は中国語に翻訳されたものが入ってきたが、朝鮮では洋学書を持っているだけで三族にわたって処罰されるほどの厳罰が処されたのである。こうした朝鮮民族の頑固さ、そして両班制度の雑科軽視、すなわち実用的な学問を軽視する姿勢が、朝鮮の近代化を遅らせた要因ともいえるのである。
韓国と日本は朱子学を国づくりの理念に据えたとしても、歴史的伝統や文化的風土な人間の生活感情から朱子学のとらえ方が異なり、両国は別々の歩みを重ねていった。そうした両国の違いを理解し、尊敬し合うことが今求められていると思われる。





