世宗の外交に学ぶ対日戦略
国紙セゲイルボ
国益のため感情抑え手握る
安倍晋三首相に会うか、会うまいか。朴槿恵(パククネ)大統領の胸中にある苦悩の一つだ。グローバル情勢の急変の中で、首脳会談は日本との経済および安保協力のためには必要だが、これと言った成果なしに終わったり、その後の安倍首相の右傾化動向への憂慮もあるからだ。
来年は国交正常化50周年を迎え、いずれにせよ首脳会談は避けられない。世宗(セジョン)(1397~1450年)の対日戦略を振り返ってみる理由はそれで十分だ。
世宗初期には父の太宗(テジョン)が上王(上皇に相当)として軍事外交業務を掌握、日本を倭寇と同一視して、対馬征伐(1419年)等、強硬政策をとっていた。
だが太宗死後(1422年)、世宗は日本事情を把握した後、関係整備に乗り出した。1443年には「癸亥約束条項」を結び、対馬で交流窓口を一元化して対日関係の枠組みを整えた。この時、交隣外交を主導したのは李藝(イイェ)や卞孝文(ペヒョムン)など専門家グループだった。
最初は世宗も室町幕府に不満が少なくなかった。例えば、世宗は足利義持死去(1423年)、足利義教即位(1429年)を朝鮮に知らせなかったことを「不届きだ」といった。
だが、世宗は当時アジアの中心だった明国とは事大外交を繰り広げながらも、日本に対して交隣外交を行った。自身の好き嫌いや理念でなく、ひたすら民と国益のために日本の手を握ったのだ。
彼は日本が使節を送って来ないことにも、「交隣の礼を知る者として、率先して礼を磨かねばならず、使節を派遣して賻儀(香典)を渡し、即位を祝った」と明らかにした。
さらに、世宗のこうした戦略は単純に慣例や実利次元を越えて、国の将来も勘案した「遠慮」であった。世宗が日本に送る使節に言ったことによく現れている。
「卞孝文が日本に行った時、受け入れなかったので、使節をまた送る考えにはならないが、三韓時代から互いに修好し、また孝文が国王(義持)の死を見てきたので、使節を送らなければ、新しい王(義教)は前王のように私(世宗)を接遇しないというだろう。後になって使節を送っても遅い。だから、いま使節を送るのだ」
もちろん今は周辺の国際秩序も、日本も、われわれ自身も世宗の時とは違う。明らかなことは自身の好き嫌いでなく、ただ国民と国のために決断した世宗の問題意識だけは有効だということだ。今、玄界灘の両側に時宜を知らない者、賢くない者らが蠢(うごめ)いている。
(金湧出〈キムユンチュル〉東京特派員、10月12日付)
※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。