集団的自衛権の限定容認 関連法改正こそ正念場に
不安煽るマスコミ報道
歌の文句に「いかに正義の道とはいえど、身にふる火の粉は払わにゃならぬ…」とあるが、平和が絶対の正義であるとするならば、その平和を実現し、享受するためには自らも火の粉をかぶることを覚悟せねばならないということであろう。
今月1日の安倍首相による「集団的自衛権の限定容認」の政府見解の発表は、同時にその決意の表明でもあったように思う。
ただし、集団的自衛権を限定的に容認すると言っても、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、国民の生命・権利が根底から覆される明白な危険がある場合に限り、集団的自衛権の行使を容認する」という過剰的とも思える厳格な歯止めがかかっており、個別的、集団的を問わず我が国の自衛権は行使するハードルが余りにも高すぎる。
マスコミ報道の中には、すぐにでも自衛隊が米軍とともに最前線で戦い「戦争のできる国になる」といった根も葉もない、ことさら国民の不安を煽るようなものが見られる。さらに看過できないのは海外での戦闘で自衛官の戦死者が出た場合、「自衛隊員の離隊が続出して、志願者が激減するだろう」とか、「危険さがわかれば、だれも自衛隊に入隊しなくなる」、しまいには「徴兵制まで行き着きかねない」などと、元防衛官僚や元防衛庁長官が発言していることである。
しかしこれは、「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努める」と服務の宣誓を行って任務に励んでいる自衛官に対する冒涜(ぼうとく)ではなかろうか。国家や国民のために自分の命を賭することもせず、保身と利己的栄達に汲々としてきた官僚や政治家の本心が透けて見えるようで何とも浅ましい。
ちなみに現在、陸・海・空自衛隊は即応予備自衛官を含めても25万人弱で、自衛隊はすでに60年前の発足時から有事に兵員損耗の補充ができず、人的継戦能力はないに等しい問題を抱えているのであって、集団的自衛権の議論とは何の関係もないことだ。加えて徴兵制度は憲法第13、18条などの規定の趣旨からみて許容されるものではないことは明らかである。
そもそも自衛隊は自衛隊法と防衛省設置法に定められた行政機関(警察や海上保安庁と同じ)であることからして、防衛出動、治安出動、海上警備行動における行動や権限の行使は、すべて法律、または法律に基づく命令によらなければ行ってはならないことになっている。
解釈厳格化も問題ある
そして今回の集団的自衛権の行使要件に合致する事態と政府が判断した場合、内閣総理大臣は国会の承認を得て、自衛隊に防衛出動を命じることによって、初めて自衛隊は武力を行使することができるのである。それも自衛のための必要最小限度でなければならないということから、極めて限定的な活動になるものと思われる。
これから新たな政府見解に基づき関連法改正の審議が行われることになるが、限定容認の解釈を厳格化しすぎると「ポジティブリスト」の法整備になりかねず、そうなれば自衛隊は予期せぬ事態に対応ができなくなり、何のために集団的自衛権を容認したのか、意味が無くなってしまう。
安倍首相は「私は総理大臣として、国民の命を守り平和な暮らしを守るために、様々な課題に対して目を背けずに、正面から取り組んでいく責任がある」と、会見を締め括った。関連法の改正こそが正念場である。全力を尽くしてもらいたい。