雲仙・普賢岳大火砕流「長いようで短い30年」
当時の島原市長鐘ケ江さんが語る、退任後に講演1000回
43人の犠牲者を出した長崎県の雲仙・普賢岳大火砕流から3日で30年となるのを前に、当時の島原市長として災害対策の陣頭指揮に当たった鐘ケ江管一さん(90)が電話取材に応じた。「長いようで短い30年間だった」と振り返り、「多くの方が亡くなり、本当に残念だった」と言葉をかみしめた。
「犠牲者が出たようです」。大火砕流が発生した30年前のあの日、今まで見たこともない真っ黒な雲煙が上がり、市役所でこう報告を受けた。「山が治まるまで」と願い、ひげを伸ばした姿で災害対策に奔走し、「ひげの市長」として全国に知れ渡った。
大火砕流の直後、当時の高田勇知事(故人)と協議し、住宅地を対象に全国で初めて災害対策基本法に基づく警戒区域の設定を決断。「それをするくらいなら窓から飛び降りた方がいい」とまで悩み抜いた末の苦渋の選択だったが、結果的に多くの市民を救った。
92年12月に市長を退任後、「経験を話してほしい」との依頼が相次いだ。「お世話になった恩返しがしたい」との思いで、93年から講演活動を開始。全国各地で「災害を人ごとと思わず、日頃から準備してください」と訴え続け、講演回数は1000回を超えた。
今でも当時の出来事を忘れることはなく、「毎朝、お釈迦(しゃか)様に犠牲者のめい福をお祈りしている」と話す鐘ケ江さん。毎年6月3日は、慰霊碑の前で祈りをささげている。30年を迎えたこの日は、雨の中で行われた市主催の追悼式で献花し、慰霊碑に向かって一礼した。