敬天愛人を「革命」にすり替えた「西郷どん」の鼻をつく沖永良部演出

◆川口雪篷が革命の旗

 大河ドラマは史実を借りた虚実混交の芝居だ。見る人によって違いもあろうが、「虚」の部分が行き過ぎると鼻をつくような演出に感じることもある。

 今年は明治維新150年ということで、NHKは西郷隆盛(吉之助)を大河ドラマの主人公にした「西郷どん」を放送中だ。若い薩摩藩主・島津忠義の後見、島津久光(げきりん)の逆鱗に触れ流罪になり、沖永良部島の吹き晒(さら)しの牢で瀕死の吉之助が島民に助け出されて座敷牢に移ったのが1日放送の第25回「生かされた命」だった。

 その最後のシーンで、吉之助が許されて薩摩に帰るため舟で出ようとした時に、先に島にいた流罪人の藩士・川口雪篷(せっぽう)(量次郎)が、「革命」と書いた手作りの大きな旗を振って見送った。

 冗談ではなく、ドラマの意味する「革命」はフランス革命を指していた。雪篷が島の子供たちに、「こん島のずっと向こうにフランスちゅ国があってな、将軍様でもなく殿様でもなく、おはんらのような一人の童(わらべ)が学問を学んで民を苦しめる国を変えたんじゃ」と話す。「なんちゅう人でごわすか」と問う吉之助に、「ナポレオンじゃ、革命の大英雄じゃ」と答えさせた。

 レボリューションに革命の訳を当てたのは明治になってからではないのか。また、フランス革命をナポレオンは起こしたのではなく、革命後の混乱を終わらせ皇帝になった人物…。こんな作り話を入れたのは、ラストの「革命」の旗振りのためだろう。これでは「敬天愛人」を生死の中で深めた地が、革命決起にすり替わってしまう。

◆「革命」解釈は大違い

 こうなると幕末から明治の歴史観に関わる。「革命」にこだわるNHK側の正体を知ろうとホームページをのぞくと、あった。第25回あらすじで「テーマは『革命』です」。また、「週刊西郷どん」というページに「島での時間は、いわば『革命留学』ではないのか? 演出 盆子原誠」のタイトルで、演出家・盆子原氏の考えが記されている。

 「…規模は小さくても、社会を巻き込み人を変えていく“成功体験”を島で味わったことが大事なんじゃないかと思っています。それが、革命家・西郷隆盛の根っことなるのではないでしょうか。…もしかすると、吉之助にとっての『革命留学』だったのではないか、と僕は考えました。…革命のイロハを学んだ時間だったのではないでしょうか」(ちなみに“成功体験”とはドラマで英軍艦が来ないように丸太を大砲に見えるように島民らとこしらえたことだが、これは革命ではなく防衛の範疇(はんちゅう)だ)。

 このような解釈で意図してフランスの「革命」をドラマに織り込んだのだ。しかし、「自由、平等、友愛」を掲げながら国王や王妃を処刑し、おびただしい血を流した革命と、西郷隆盛の時代を変える手法は違う。

 西郷の教えは徳目を説く内容で、明治23年にまとめた「南洲翁遺訓」に「革命」の文字はない。その頃は既に東京専門学校(現・早稲田大学)など教育現場で使われた西洋史の講義録に「革命」を当てた訳があるが、「遺訓」は幕末から明治への時代変化を「維新の功業」「戊辰の義戦」と表現している。明治の人々は「維(こ)れ新(あら)た」と世の中を改めて新しくする「維新」の字を当てたのだ。

 また、英訳で明治維新はザ・メイジ・レストレーション(明治王政復古)であり、大政奉還の後に王政復古の大号令がなされたとおり。革命と大違いである。

◆原作離れ敬天深めず

 西郷隆盛の「敬天愛人」発祥の地を扱いながら、ドラマは「敬天」の本質を深める演出が特に不足していた。冒頭、島民に助けられた吉之助に雪篷が「天が生かしたとでも言うのか」と問い、「天と人じゃ。誰かがオイに水を飲ませてくれた」と吉之助がサラリと答えた程度。

 その「誰か」とは、後で革命の旗を振る雪篷だ。第24回「地の果てにて」(6月24日放送)で、友の大久保一蔵(利通)が戻してくれると信じて気を失っていた野晒し牢の吉之助に、牢に入って口で水を与えた。

 原作「西郷どん!」(林真理子著)で、「生死はすべて天が決める」と悟り「すべての人間が同じ価値を持つ。天はこのことを自分に教えるために、この狭い過酷な牢獄へと自分を導いたのだ……」と綴(つづ)られた沖永良部流刑の場面では雪篷は出てこない。その雪篷を用いて人間臭い友愛と革命史観で脚色したいのか、NHKはとんでもないドラマにしたものだ。

(窪田伸雄)