日本の陶磁器の本家・韓国の嘆かわしい現実


韓国紙セゲイルボ

 韓流ファンになった日本の友人が理解できないことがある。韓国食堂の器文化だ。どこでもステンレス碗(わん)とプラスチック容器が出てくる。日本の陶磁器文化の本家が韓国であることを知る者には明らかに理解し難いことだ。

 朝鮮陶工が西国の諸大名に連れて行かれたことで、佐賀などで陶磁器産業が発達した。代表的な人物が李参平(イサムピョン)だ。1616年、有田泉山で白土を発見し窯を開いて磁器を焼き始めた。これが欧州の上流階級を熱狂させた「有田焼」の始まりだ。彼は日本で「陶祖」と呼ばれる。

 佐賀藩主の鍋島直茂は朝鮮陶工7人に姓を下賜して、李参平には子孫代々に「三石永代」の許しも与えた。途方もない特権だ。子孫は今でも朝鮮陶磁器の脈を継いでいる。

 「有田焼」は以後「伊万里」と呼ばれ、1730年まで70余年間、東インド会社を通じて700万個の陶磁器を東南アジア、インド、欧州などに送った。西国諸藩は莫大な富を蓄積し、それが倒幕と近代化の原動力になった。

 この前、慶尚北道無形文化財の白磁匠ペク・ヨンギュ先生に会った。先生は1938年日本の北海道で生まれた。1945年帰国し、金泉の窯で父と陶磁器作りを始めた。14歳だった。最初、彼が陶工を継ぐことに父は乗り気でなかった。「泥にまみれた奴(やつ)」と笑い者になるその運命を譲りたくなかったためだ。家出を繰り返したが、帰ると窯の前で薪をくべていた。それでも人間文化財にまでなった。

 しかし、ペク・ヨンギュのような人が韓国に何人いるだろうか。日本に連れて行かれた陶工は英雄になり、韓国に残った陶工は笑い者になった。日本が奪っていった朝鮮器は国宝になったが、韓国人の食卓にはステンレス茶碗が置かれている。日本人の茶卓には朝鮮陶工の後裔(こうえい)が作った芸術品が置かれているのに、韓国人の手には紙コップとマグが持たれている。恥ずかしくて呆(あき)れる話だ。

(金武坤〈キムムゴン〉東国大教授・コミュニケーション学、11月22日付)

※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。