インドで共産党毛派が活動強化
暴力革命重視、やり口残忍
インドで、「鉄砲から政権が生まれる」という毛沢東語録を掲げ暴力革命を目指す極左武装組織「インド共産党毛沢東主義派」がなお勢力を温存させている。毛派は、マルクス主義グループの中でも武装闘争・暴力革命を重視した一派で、やり方が残忍で容赦がなく、インドにとって毛派は2008年1月のムンバイ同時テロなどを起こしたとされるイスラムテロ組織・ラシュカレトイバと並ぶ治安上最大の脅威となっている。(池永達夫)
モディ首相、貧困対策が課題に
今春、インドの中部チャッティスガル州スクマ地区で治安部隊が毛派の武装集団に襲撃され19人が死亡した。
毛派の拠点の一つであるチャッティスガル州では10年4月にスクマ地区で中央警察予備隊部隊が密林地帯を行軍中、丘の上から毛派の銃撃を受ける事件が起き、部隊82人中76人が死亡しているし、5月中旬にはバスに乗っていた警察部隊と民間人の計30人余が、毛派の埋設した地雷で死亡した。
また同年5月下旬にはインド東部の西ベンガル州ウエストミドナプールでムンバイ行きの寝台特急列車が脱線して貨物列車と正面衝突、80人余が死亡する事故が発生したが、爆弾によってレールを破壊されていたことから毛派の犯行とされる。現場周辺は元来、毛派の活動が最も活発な地域の一つで、事件後には毛派の宣伝文書も発見されている。
とりわけ世界の耳目を集めたのが、12年7月に起きた「マルチ・スズキ」工場での暴動だ。「マルチ・スズキ」は自動車大手スズキのインド子会社だが、ニューデリー郊外のマネサール工場の暴動でインド人人事部長1人が死亡した他、邦人ら約100人が負傷した。死亡した人事部長は組合員から鉄棒で殴打され動けなくなったところで、建物に放火され、炎に巻き込まれた。
こうしたひどいやり口は、かつて日本の新左翼のやり口にも似ている。彼らはターゲットのいる家屋に押し入り、手足を鉄パイプで打ち砕いてダルマ状態にした後、トドメを刺す手口が横行した。
インドでは激しい労使紛争も珍しくはないものの、生命を尊ぶ仏教発祥の国らしく命を落とすようなケースはまれで、暴力革命を掲げる毛派の関与が疑われ、インド内務省は傘下の情報機関に毛派との関係を調べるよう指示を出したとされる。マネサール工場を含めニューデリー首都圏には、毛派の前線組織もしくは支援組織が少なくとも3労組存在し、労使紛争に火を付けようとしているとの情報もある。
暴力革命を掲げる毛派は1967年、西ベンガル州ダージリンで結成された。土地獲得のために蜂起した小作農グループが、毛沢東の革命思想の影響を受けたインド共産党の一派の支援で発足した経緯がある。その後、毛派は分裂と融合を繰り返しながら細々と勢力を維持し続け、2004年9月に主要3派が再結集することで転機を迎え、活動強化の資金と組織を得ることとなった。以後、鉄道や警察、公安、学校といった政府関連施設を襲撃したり、政府に協力的とみる人々を殺害したりするなどのテロ行為を繰り返している。
毛派3派連合が擁する戦闘員は1万人を超えるとされる。戦闘員の確保はネパール共産党毛沢東主義派同様、主に襲った農村住民を誘拐して戦闘員に加えるなどの恐怖支配で増やしてきている。また、毛派が政府の影響力の及ばない僻地(へきち)などで銃による実権を行使した「解放区」を展開、住民税や通行税を徴収して独自の行政サービスを行う地域も現れており、未開発地域に道路などインフラ建設も行うこともある。
ネパールの毛派は長年武装闘争を展開し、ネパール領土のかなりの部分を実効支配。06年に停戦に応じ、以後、合法政党として暫定政権に加わり、議会内の活動に転ずる。ネパール首相は現在、毛派副書記長だったバブラム・バッタライ氏が務めているほどだ。
近年、インドの毛派が活動を先鋭化させている背景には、ネパール毛派との連携が取り沙汰されている。ネパール毛派からインド毛派へ資金や武器供与があるとされるのだ。
インド政府は5年前、警察部隊を動員して大規模な毛派掃討作戦を展開した経緯があるが、毛派は山岳部を転々としており、主流武装組織の壊滅には程遠い。
今春、総選挙でインド人民党(BJP)は国民会議派を制し10年ぶりの政権交代を実現した。経済改革派で西部グジャラート州の経済成長を導いた実績を持つモディ首相(63)がインドの「経済再建」を果たせるかどうか、その結果次第では毛派が勢力を増す可能性がある。毛派の勢力拡大のバネは「貧困」だからだ。